TOP | 信長年譜  天正時代 七年〜十年
西暦 年号 信長年齢 信長所在地 事績/日 事   項
1579 天正 7年 46歳 京都 2月18日 近江国安土より「御上洛」し「二条御所」に入る。[兼見卿記]
「迎衆」の堂上・地下・町人の祗候は無用であるとの通達により山科言経は帰宅す。[言継卿記]
2月21日 東山慈照寺辺に於いて鷹狩を催す。[兼見卿記]
2月26日 東山において鷹狩を行う。[兼見卿記]
3月2日 鷹狩を行う。[兼見卿記]
3月4日 信忠、上洛。[兼見卿記]
3月5日 信長、出陣。山城国山崎へ布陣。[兼見卿記]
信長・信忠、摂津国有岡城に向けて出陣。[兼見卿記]
5月1日 摂津国より上洛す。[言継卿記]
5月3日 「今路」を経由して俄かに近江国安土へ下向。[兼見卿記]
安土 5月11日 吉日というので近江国安土城の天主に移徙す。[兼見卿記]
5月27日 安土宗論 近江国安土浄厳院における浄土宗と法華宗との宗論の様子が記録され、法華宗が閉口することで敗北。判者は南禅寺秀長老因果居士。奉行衆は菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一。「信長殿御名代」として織田信澄が立ち合った。[知恩院文書]
5月28日 教蓮社聖誉貞安へ慈恩寺浄厳院における法華宗との問答で勝利したことを賞す。
[知恩院文書] [大雲院文書]
安土宗論の結果、日蓮宗の京都地下人が久遠院に監禁されたため「騒動」が著しかった。「新サイ家衆」らが山科言経邸に避難した。[言継卿記]
6月16日 信忠、近江国安土城の織田信長を訪問。[信長公記]
7月25日 しろの御鷹 奥州の遠野孫次郎広郷から進上されて来た、まことに雪のごとく白い羽根をした「しろの御鷹」をこよなく愛し、以後この鷹をつれた鷹野が頻繁に行われるようになる。[信長公記]
7月26日 信長の遊興 信長は、遠野広郷の使者と当時上洛していた津軽の南部宮内少輔利直に安土城の天主を見物させた。[信長公記]
8月3日 本国寺日メA美濃国法華寺へ安土宗論後ではあるが織田信長から仏法再興許可が出されたこと、信長が法華寺を入魂に思っていたための処置と見なし、尾張国・美濃国末寺衆は法華寺を尊敬するよう通達。[法華寺文書]
8月8日 越前北ノ庄の柴田勝家、加賀の阿多賀、本折、小松を攻略する。[信長公記]
8月22日 信忠、夜に上洛。[兼見卿記]
8月29日 築山殿殺害 築山殿(徳川家康正室)、殺害される。[日本史人物生没年表]
9月4日 羽柴秀吉、安土において帰順した宇喜多直家に所領安堵の朱印状を下すよう言上。[信長公記]
京都 9月11日 入京 申刻に上洛。[多聞院日記]
9月15日 松平信康自刃 松平信康、遠江国二俣城に於いて自刃。[日本史人物生没年表]
9月20日 一雲斎針阿弥の仲介で岡屋某(「岡屋若狭守」)を仕官させる。[兼見卿記]
9月21日 摂州表へ出陣。[兼見卿記]
9月24日 連日の雨により山城国山崎に滞留していたが、この日摂津国へ発足。[兼見卿記]
9月28日 摂津国より帰洛す。[多聞院日記]
9月29日 摂津国天王寺にて合戦あり。[多聞院日記]
この月 荒木村重、「女子共」を残して摂津国有岡城を脱出、摂津国尼崎城に籠城す。[立入左京亮入道隆佐記]
安土 10月9日 安土帰城 近江国安土へ下向。[兼見卿記]
10月24日 明智光秀、近江国安土城へ登城し丹波国・丹後国の平定を報告。[信長公記]
11月3日 近江国栗太郡勢多に逗留。[兼見卿記]
京都 11月4日 入京 巳刻に上洛。[兼見卿記]
11月7日 東山において鷹狩を行う。[兼見卿記]
11月15日 誠仁親王へ二条新邸を献上。[兼見卿記]
11月20日 織田軍、摂津国有岡城を接収する。[多聞院日記]
11月21日 二条新御所 誠仁親王の二条新御所への移徙が明日11月22日に決定する。[兼見卿記]
11月22日 誠仁親王、二条新御所へ移徙。[兼見卿記]
11月26日 誠仁親王へ鶴を献上。[兼見卿記]
12月10日 「南方」へ出陣。この日は山城国山崎に布陣。[兼見卿記]
12月11日 雨のため山城国山崎へ滞留。[兼見卿記]
12月12日 荒木村重の人質30余人を京都に送付。[信長公記]
12月13日 荒木村重の人質の残り女房120人、召使の女子供388人、若党24人の合計512人を4軒の家に押し込めて焼き殺す。[信長公記]
12月14日 摂津国方面の軍事行動がが悉く「一着」したとのことで山城国山崎より帰陣。[兼見卿記]
12月16日 京都六条河原に於いて村井貞勝を「奉行」とし、「越前大名衆」の佐々成政・金森長近・前田利家・村井専次ら「村井長門守内衆」の3000人「警固衆」を以て荒木村重子息・女房衆らの処刑を断行。
安土 12月19日 安土帰城 未明に近江国安土へ下向。[兼見卿記]
12月25日 津田宗及 正親町天皇、本願寺顕如に対し織田信長との講和を勧める。[信長公記]
1580 8年 47歳 1月17日 茶湯の三大宗匠の一人 羽柴秀吉、別所長治を自刃させ播磨国三木城を陥落。[信長公記]
2月19日 羽柴秀吉、近江国長浜城に津田宗及らを招待して茶会を開催。[宗及他会記]
京都 2月21日 入京 未の下刻、上京し妙覚寺に入る。[信長公記]
2月24日 連日の放鷹 信長、京都東山に於いて放鷹。[信長公記]
2月25日 昨日同様京都東山に於いて放鷹。[信長公記]
2月26日 本能寺宿所造営 所司代村井貞勝に命じて、本能寺に新たな宿所を造営させる。[信長公記]
3月8日 入京 摂津国より上洛し、直接京都北山に向かい放鷹。[兼見卿記]
3月9日 相撲の北条氏政の使者を本能寺に引見する。[信長公記]
安土 3月10日 安土帰城 近江国安土へ下向。[信長公記]
3月15日 長命寺にて放鷹 乗船して長命寺に至り、19日まで奥州の遠野孫次郎広郷から進上されて来た、「しろの御鷹」を放鷹する。[信長公記]
閏3月13日 明智光秀、近江国坂本城の修築を開始。[兼見卿記]
4月9日 本願寺顕如、石山本願寺を退去。[超願寺文書]
4月10日 本願寺顕如、紀伊国鷺森に到着。
本願寺顕如、紀伊国雑賀へ下向。[明淳寺文書]
4月11日 終始安土にあって鷹狩り。
4月24日 終始安土にあって鷹狩り。
羽柴秀吉、播磨国宍栗郡の宇野民部を長水山城を攻撃。
5月5日 相撲見物をする。
5月7日 近江国安土城下町の工事が終了。[信長公記]
5月17日 相撲見物をする。
6月24日 相撲見物をする。
7月14日 入京 近江国安土より上洛。[兼見卿記]
京都 7月17日 本願寺教如(「本願寺新門主」)へこの度の「光寿赦免」の旨を誓約した血判起請文を提出。[本願寺文書]
7月晦日 近衛前久と本願寺教如の石山本願寺退去の件で談合す。[飯野保氏所蔵]「織田信長書状]
8月2日 本願寺教如、摂津国大坂の石山本願寺を退去し紀伊国雑賀へ下向。[安養寺文書]
8月12日 佐久間父子追放 京都を発し大坂に向かう。
佐久間信盛・佐久間信栄父子を高野山に追放。[信長公記]
8月15日 京都宇治から八幡を見て大坂へ向かう。[御湯殿上日記]
8月17日 大坂を発し京都に帰還す。
8月23日 上洛す。[兼見卿記]
安土 8月26日 安土帰城 午刻に近江国安土へ下向。[兼見卿記]
8月 宿老追放 林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝をも遠国へ追放する。[信長公記]
丹波国を明智光秀、丹後国を細川藤孝に与える。[信長公記]
11月7日 筒井順慶を大和の守護となし郡山城を与える。[多聞院日記]
11月17日 柴田勝家、加賀の一向一揆を攻略してその首謀者十九人の首を安土に送致する。[信長公記]
1581 9年 48歳 1月15日 左義長 近江国安土に於いて左義長・馬揃が行われる。[兼見卿記]
南蛮笠 近江国安土に於いて「サキチヤウ風流」(三毬打)が執り行われる。[多聞院日記]
1月16日 細川忠興(「長岡与一郎」)、近江国安土より上洛。[兼見卿記]
1月18日 「諸大名」を召集し、金銀で飾り立て、「天下に其聞無隠事」であった。[立入左京亮入道隆佐記]??近江国安土に於いて「御爆竹」を挙行。
1月25日 京極高吉、没。[日本史人物生没年表]
2月9日 近江国安土への「御使之衆」、帰洛す。[立入左京亮入道隆佐記]
2月10日 信忠、伏屋市兵衛へ知行を宛行う。[伏屋文書]
2月15日 上洛を来2月18日に延引。[兼見卿記]
2月19日 信忠、上洛す。[多聞院日記]
2月20日 入京 申の下刻に上京し本能寺に入る。[信長公記]
2月21日 今度の「御馬汰」のため内裏の東方へ馬場を造作させる。南北4町、東西1町余りの馬場であった。
[兼見卿記]
2月22日 内裏東方の馬場、完成。[兼見卿記]
2月28日 馬揃 内裏東方の馬場にて、公家衆、諸将らを騎乗させ馬揃を興行する。天皇見物する。[信長公記]
2月24日 柴田勝家、入京し本能寺の信長を訪問、越前国・加賀国平定を復命する。
3月7日 正親町天皇、信長に左大臣任官を勧める。
3月9日 誠仁親王への譲位後に拝命する旨を奏請する。[御湯殿の上の日記]
近江国安土下向を予定するも明日に延期。[兼見卿記]
3月10日 未明に近江国安土へ下向。[兼見卿記]
3月28日 菅屋長頼を能登七尾城代として派遣し、能登が平定される。越中を侵す上杉景勝と佐々成政との間で激戦が続いていた。[信長公記]
4月8日 信長の意によって大和国「木守」に於いて「勧進能」が興行される。[多聞院日記]
4月10日 竹生島参詣 羽柴秀吉、竹生島参詣途中の織田信長を出迎える。[信長公記]
4月20日 森成利(「森乱法師」)へ近江国内に500石を扶持するので領知とすべきことを命令。
[尊経閣文庫文書]
4月24日 某へ甲斐国・信濃国への出征予定を告げ、奔走を促す。〔「吉田文書」〕
6月2日 明智光秀、明智家中へ全16ヶ条の「軍法」を発す。[御霊神社文書]
細川忠興、丹後国に於いて病む。[兼見卿記]
6月12日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に津田宗及を招待して茶会を開催。[宗及他会記]
6月25日 羽柴秀吉、因幡国攻略のため播磨国姫路城を出陣。因幡国摩尼山向城に入り本陣とする。
7月12日 羽柴秀吉、吉川経家が守備する鳥取城を包囲し兵糧攻めを開始。[信長公記]
8月1日 織田信長、近江国安土に於いて「御馬汰」を開催。[兼見卿記]
この頃 明智光秀の妹「御ツマキ」が死去。
信長が「一段ノキヨシ」であり、明智光秀はとても落胆した。[多聞院日記]
8月13日 因幡国出陣を決意し、細川藤孝らへ準備を命令。
8月17日 足利将軍家の畳指の子孫であった畳指新四郎を「石見」と改名させ、「天下一」であるので織田家の大工とすること、今後は諸公事以下を免許することを通達。[伊阿弥家文書]
8月19日 明智光秀、この朝早々に大和国興福寺成身院に到来す。大和国郡山城普請の見舞であった。100名ばかりを随行させた一団であった。十市新二郎も大和国郡山城へ同行した。[多聞院日記]
8月20日 この払暁に大和国興福寺より大和国郡山城に滞在する明智光秀へ御礼として「摩尼」が贈られる。
[多聞院日記]
8月21日 明智光秀、この暁に大和国郡山城より帰還する。[多聞院日記]
8月 能登国を前田利家 能登国を前田利家に与える。[信長公記]
9月2日 伊勢国出勢を実行。東より信雄を、北より信澄・滝川一益・丹羽長秀を、南より筒井順慶を進撃させる。
[兼見卿記]
9月3日 信雄を総大将として、伊賀討伐を命ずる。伊賀平定。[信長公記] 
9月4日 細川藤孝へ丹後国の一色義有の「知行出来分」を明智光秀に預けることとしたので、相談すべきことを命令。[細川家文書]
9月6日 伊賀国境界に放火。[兼見卿記]
9月7日 明智光秀へ丹後国の一色義有知行の「出来分」前後合わせて2万石を今度の「検地」による員数で引き渡すことを命令。残りの分は細川藤孝(「長岡兵部大輔」)に渡すべきことを通達。[細川家文書]
9月8日 安土築城の職人頭に小袖
安土城内装の竣工
狩野永徳・岡部又右衛門ら安土築城に関与した職人頭に小袖を与える。[信長公記]
伊賀 10月9日 伊賀下向 平定となった伊賀国を検分のため下向する。信忠・甥の信澄も同道する。[信長公記] 
水口の飯道寺へ登り、国内を遠望する。[信長公記] 
10月10日 伊賀の一宮を経て国見山に登り、滝川一益の構えた御在所より国中を眺望する。[信長公記] 
9月11日 伊賀平定 瞬く間に平定され、信雄・信包の分国となった。[信長公記]
10月12日 小波多に在陣する信雄・筒井順慶・丹羽長秀を見舞う。[信長公記] 
安土 10月13日 安土帰城 伊賀の一宮より安土に帰城する。[信長公記] 
9月16日 細川藤孝へ折紙と松井康之からの注進状を披見したこと、伯耆国方面への軍事行動で伯耆国泊城へ進撃・放火、更に敵船(毛利水軍)65艘を切り捨てた戦功と因幡国大崎城を
攻略したことを賞し、今後の作戦遂行を命令。[細川家文書]
10月17日 長光寺山に放鷹する。[信長公記] 
伊賀侵攻軍の将兵、帰陣する。[信長公記] 
9月28日 羽柴秀吉、畳指「石見」宗珍へ「畳指為天下一」として信長(「上様」)より織田家「御大工」を仰せ付けられ、諸公事以下を「御免許」することは織田信長「御朱印」の旨に任せることを通達。[伊阿弥家文書]
10月7日 愛知川での放鷹の帰り、城下の修道院を訪れる。[信長公記]
10月25日 因幡平定 羽柴秀吉、因幡国鳥取城を攻略し吉川経家を自刃させる。宮部継潤に鳥取城を守備させる。[信長公記] 
10月28日 羽柴秀吉、伯耆国高山へ進軍。[信長公記] 
11月8日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に凱旋し直ちに淡路島へ上陸。[信長公記] 
11月15日 近江国安土城へ勅使と青蓮院尊朝法親王の坊官が下向する。[信長公記] 
11月17日 羽柴秀吉、淡路国岩屋城・由良城を攻略し淡路島を平定。[信長公記] 
11月20日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に凱旋。[信長公記] 
12月18日 織田信長、一雲斎針阿弥を紀伊国高野山に派遣す。[信長公記] 
12月20日 羽柴秀吉、近江国安土城において織田信長に因幡国・淡路島平定を復命し感状および茶湯道具12種を授与される。[信長公記] 
12月22日 羽柴秀吉、播磨国姫路城に帰還。[信長公記] 
12月23日 羽柴秀吉、今井宗久・今井宗薫へこの日近江国安土城において織田信長より8種の名物の茶道具を拝領?したことを報告。[小林文書]
12月27日 羽柴秀吉、摂津国茨木城において茶会を開催し播磨国姫路城に帰還。[信長公記] 
1582 10年 49歳 1月1日 元旦安土城参賀 近江国安土城において諸大名の年始祝賀を受ける。[信長公記] 
近江国安土城に於ける年頭参賀の際の祝儀は信長が「直ニ被仰出」れた「御諚」を遵守して大名・小名同様に10疋宛を献上する  ことになった。 年頭参賀には信忠・信雄・信孝・織田信澄・織田信包・明智光秀・筒井順慶・大和国衆・河内国衆・和泉国衆・摂津国衆、その他諸国衆へ同時に「御礼」が行われた。[蓮成院記録]
近江国安土城に於いて諸国大名・小名より年頭参賀をうける。この春に出陣を控えているために無用の出費を?避けるために献上物は10疋ずつとし、参賀者はすべて「布衣」を着用した。[多聞院日記]
御幸の間 天主に案内された諸大名は、すべて金にちりばめた「御幸の間」、天皇の行幸を迎える座敷を拝見する。
[信長公記] 
1月6日 初鯨を献上 禁裏へ初鯨を献上。この献上された鯨肉は摂家・清華家の各家に分配された。[お湯殿の上の日記] 
1月7日 明智光秀、近江国坂本城に於いて茶会を開催。山上宗二と津田宗及を招待す。[宗及他会記] 
1月15日 近江国安土に於いて「竹爆」・「御馬汰」が行われる。[兼見卿記]
1月25日 伊勢国大宮司の河辺常長らへ伊勢大神宮造営の執行の件で御師の上部貞永に平井久右衛門尉を
添えて派遣することを通達。[松木文書] 
2月2日 織田信長、朝廷へ「つる」を5羽献上す。[晴豊記] 
武田勝頼、織田信長に内応した木曽義昌を討伐するため信濃国諏訪上原まで出陣。[信長公記] 
2月3日 甲斐侵攻作戦 美濃国岐阜城の織田信忠へ以前指示した費用3000貫を伊勢大神宮御師の上部貞永と平井久右衛門尉へ送付することを通達。[外宮天正遷宮記] 
織田信長、甲斐国討伐の進路を決定。伊那口から信長父子が攻め、家康に駿河口、金森長近に飛騨口、相模の北条氏政に関東口からの進撃を命ずる。[信長公記] 
2月5日 松平家忠、酒井忠次より木曽義昌の寝返りにより近日中に織田信長の出陣があるので、出陣準備を命令される。[家忠日記] 
2月6日 織田信忠の先鋒軍、甲斐国武田氏への攻撃を開始。滝沢城を陥れる。
2月9日 織田信長、武田勝頼討伐のために全11ヶ条の「条々」を発す。[池田家文庫本『信長記』] 
2月9日 羽柴秀吉、太田資正へ信長への内応希望を諒承し、「五畿内」の件は?言うに及ばず「中国」方面および「四国」方面までも制圧したので、「上辺」に於ける「御用」を取り次ぐ旨を通達。詳細は宝林坊に伝達させる。[太田文書] 
2月12日 信忠岐阜出陣 織田信忠・滝川一益・河尻秀隆・毛利秀頼らを率いて美濃国岐阜城を出陣し土田に着陣。
2月13日 織田信忠・滝川一益・河尻秀隆・毛利秀頼ら高野。
2月14日 織田信忠・滝川一益・河尻秀隆・毛利秀頼ら木曽峠を越えて信濃国伊那郡岩村城に着陣。
織田信忠の先鋒軍、信濃の松尾城、飯田城を陥れる。小笠原信嶺(信濃国松尾城主)、織田信長への恭順を申し入れる。[信長公記] 
2月15日 信忠に従って東国へ出陣し国境の難所を突破した滝川一益からの注進に応え、信長側は出陣に備えているので時期を見計い発足日限を上申する旨、また若い信忠を制御する旨を指示。もし失敗したならば織田信長の面前への参上は許可しない旨を通達。[建勲神社文書] 
2月16日 織田信忠・滝川一益・河尻秀隆・毛利秀頼ら平谷。織田信忠の先鋒軍、信濃国鳥居峠へ進軍。今福昌和を撃破する。[信長公記] 
2月17日 織田信忠、飯田に至る。ついで大島城を陥れて入城し、さらに飯島城に在陣。松平家忠、遠江国浜松城に到着、武田側が遠江国小山今城を放棄した旨を知る。[家忠日記] 
2月18日 紀伊国雑賀へ「朱印」を発す。[晴豊記] 
徳川家康、遠江国掛川城に着陣。
2月20日 松平家忠、駿河国田中城を攻撃。[家忠日記] 
2月21日 徳川家康、駿河国駿府城を占領。
松平家忠、遠江国持船城を包囲。[家忠日記] 
2月23日 松平家忠、遠江国持船城の堀際に竹束を寄せて攻撃準備を行う。[家忠日記] 
2月26日 大和国興福寺大乗院門跡、この朝に近江国安土城へ向けて大和国奈良を発す。織田信長が来月早々に信濃国へ「御出馬」することへの見舞のための出仕であった。[多聞院日記] 
2月27日 織田信忠、信濃国鳥居峠から信濃国飯田に進軍し大島城を攻略。織田信忠は大島城を河尻秀隆・毛利良勝に守備させる。
遠江国持船城との和議が締結される。[家忠日記] 
武田勝頼、信濃国諏訪上原の陣所を焼き捨て、甲斐国新府へ撤退。
大和国興福寺大乗院門跡、近江国安土城に於いて仁王経御修法による祈祷を行う。[多聞院日記]
寛舜、京都に於いて信長への進物小袖の調達に遅延したので、これを近江国安土城へ持参する。
[多聞院日記]
2月29日 織田信忠、近江国安土城の織田信長へ武田勝頼の撤退を報告する注進状を発す。
[関戸守彦氏所蔵文書]
3月1日 織田信忠、武田勝頼・仁科盛信が籠もる信濃国高遠城への攻撃を開始する。[立入左京亮入道隆佐記] 
3月2日 織田信忠、信濃国高遠城を攻略し武田信豊・仁科盛信以下を「打果」する。[兼見卿記]
織田信忠、信濃国高遠城を攻略して甲斐国へ進軍す。[立入左京亮入道隆佐記]
織田軍、「甲州之衆」と一戦に及び100余を討ち取る。[多聞院日記]
3月4日 明智勢が「大事ノ陣」というので信濃国へ向けて「ちりちり」と出発。兵卒はまさに「しほしほ」とした様相であった。[晴豊記]
3月5日 武田氏滅亡 織田信忠、上諏訪より新府城を経て甲府に乱入し、勝頼一族や重臣らの残党を捜し成敗する。
[信長公記] 
安土出陣 信長、安土城を出陣し、柏原の成菩提院(米原市)に宿泊。[信長公記] 
甲府 3月6日 信長、呂久の渡しに至り、高遠城主仁科盛信(武田勝頼の弟)の首を実検し長良川の河原にさらす。
[信長公記] 
3月7日 信長、岐阜城に逗留。[信長公記] 
3月8日 信長、犬山に着陣。[信長公記] 
3月9日 信長、兼山。[信長公記] 
3月10日 信長、高野。[信長公記] 
徳川家康、甲斐国市川に布陣。
3月11日 信長、岩村城に至る。[信長公記] 
徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。
柴田勝家・前田利家、越中国魚津城・越中国松倉城を攻囲。
3月13日 信長、信濃の羽根に移陣。[信長公記] 
3月14日 信長、信濃国伊那郡波合に着陣し、勝頼父子の首を実検する。[信長公記] 
松平家忠、甲斐国甲府善光寺を見物。[家忠日記] 
3月15日 飯田着陣 羽柴秀吉、備中国攻略のために播磨国姫路城より出陣。
信長、信濃国飯田に於いて勝頼父子の首をさらす。ついで京都に送り、さらし首にした。[信長公記] 
3月17日 信長、大島を経て飯島に着陣。[信長公記] 
徳川家康、織田信長を訪問し対面する。[家忠日記] 
3月18日 信長、高遠城に入る。[信長公記] 
3月19日 信長、上諏訪の法花寺に至り滞陣。[信長公記] 
3月20日 信濃国上諏訪に於いて木曽義昌・穴山信君・小笠原信嶺らを謁す。
3月24日 松平家忠、遠江国本栖で御茶屋の造作普請を開始。[家忠日記]
3月29日 信長拝領 徳川家康、駿河国を拝領。[信長公記] 
滝川一益、上野国および信濃国小県郡・佐久郡を拝領。[信長公記] 
森長可、信濃国高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を拝領。[信長公記] 
木曽義昌、信濃国木曽谷および安曇郡・筑摩郡を拝領。[信長公記] 
毛利秀頼、信濃国伊那郡を拝領。[信長公記] 
秀吉備前国岡山着陣 羽柴秀吉、備前国岡山へ着陣。
4月2日 信長、諏訪より甲斐の大カ原に至る。[信長公記] 
4月3日 甲府着陣 信長、富士山を遠望しながら灰燼に帰した新府を検分。ついで甲府に着陣して逗留。[信長公記] 
4月10日 信長、甲斐国甲府を出発し甲斐国右左口峠に「御成」し、家康新造の陣屋に入る。[家忠日記][信長公記]
4月11日 松平家忠ら三河衆、甲斐国右左口峠にて織田信長の行列を警固する。[家忠日記]
信長、女坂を越え本栖湖に泊まる。
4月12日 信長、未明に発ち、富士を望ながら駿河の大宮(浅間神社)に着陣。
4月13日 信長、早発ちして浮島ヶ原を過ぎ、馬で富士川を渡り、神原を経て江尻城に入る。[家忠日記]
4月14日 信長、阿部川を越え田中城に泊まる。
羽柴秀吉、宇喜多氏と共に備中国へ進軍。
4月15日 信長、藤枝より大井川を渡り掛川に泊まる。
三河 4月16日 信長、家康の居城浜松に宿泊。
4月17日 信長、吉田に泊まる。
4月18日 信長、知立に泊まる。
4月19日 信長、清洲に泊まる。
4月20日 信長、岐阜城に泊まる。
安土 4月21日 安土帰城 信長、近江国安土城に凱旋。
4月25日 羽柴秀吉、備中国巣蜘塚城を攻略。[亀井文書]
羽柴秀吉、備中国冠山城の城主林三郎左衛門・松田孫次郎および三百人を討ち果たし、大将両名の首を近江国安土城へ進上。[溝江文書]
5月2日 羽柴秀吉、備中国河屋城・備中国加茂城・備中国亀石城を攻略。[亀井文書][村上文書]
5月7日 羽柴秀吉、清水宗治を備中国高松城に包囲し水攻めを開始。[信長公記] 
5月13日 細川藤孝、吉田兼見邸に「滞留」す。明日近江国安土城に出仕するという。[兼見卿記]
5月14日 細川藤孝、早天に近江国安土城へ向けて吉田兼見邸を出発。[兼見卿記]
吉田兼見、この度徳川家康が近江国安土城の信長に礼参するために登城すること、また
明智光秀が「在庄」を命じられたことを知る。[兼見卿記]
5月15日 織田信長、近江国安土城・ハ見寺に於いて徳川家康・穴山信君らを謁見す。[多聞院日記]
徳川家康、近江国安土城に来臨す。[多聞院日記]
5月17日 織田信長、明智光秀へ羽柴秀吉赴援の先鋒を命令。
徳川家康、長谷川秀一の案内により京都から摂津国大坂へ移る。
5月21日 織田信忠・徳川家康、上洛す。[言経卿記]
京都 5月29日 入京 織田信長、雨天の中未刻に入洛す。[兼見卿記]
6月2日 信長自刀 明智光秀、京都本能寺に於いて織田信長を襲撃。[信長公記] 
明智軍、京都妙顕寺を襲撃。[兼見卿記]
織田信忠、誠仁親王の「二条之屋敷」へ入る。[兼見卿記]
織田信忠、京都妙覚寺を出て二条御所に籠もったところ、同じく明智光秀が襲撃し後刻「打死」す。
村井貞勝以下も「悉打死」した。[言経卿記]
明智光秀、在京の織田軍を「悉打果」し、未刻に近江国大津通を下向。[兼見卿記]
徳川家康主従、和泉国堺に於いて茶屋清延より織田信長・織田信忠生害の報を受ける。
明智光秀、近江国に進軍す。[兼見卿記]
6月3日 羽柴秀吉、明智光秀が毛利氏に送った密使を捕獲し本能寺の変報を知る。[浅野家文書]
清水宗治、蜂須賀正勝・杉原家次へ備中国高松城兵の助命を条件に切腹を申し出る。[太閤記]
織田軍、紀伊国高野山の攻囲を解く。
6月4日 清水宗治自刃 明智光秀、近江国を制圧す。[兼見卿記]
清水宗治、備中国高松城において自刃。[日本史人物生没年表]
徳川家康主従、三河国岡崎城に帰還。
6月5日 明智光秀安土城入城 明智光秀、蒲生賢秀より近江国安土城を明け渡され入城す。[兼見卿記]
羽柴秀吉、備中国高松城陥落後に「誓紙」を認め「人質」を提出し「和睦」を調える。[秋田家文書]
6月6日 羽柴秀吉、備中国高松を発し備前国沼城に入城。
羽柴秀吉、播磨国姫路城へ入城。[松井家譜]
6月7日 羽柴秀吉、中国陣を撤退し播磨国姫路城へ入城。[秋田家文書]
6月8日 明智光秀の上洛のため、明日の摂津国への軍事行動のために明智軍は近江国安土城を出動。
明智軍先勢は京都山科・近江国大津に布陣していた。[兼見卿記]
6月9日 明智光秀、未刻に上洛す。[兼見卿記]
明智光秀、夕食後に京都下鳥羽に出陣。[兼見卿記]
羽柴秀吉、播磨国明石を出発。[萩野文書]
6月10日 明智光秀、京都山崎八幡の「ホラカ峠」に着陣。[蓮成院記録]
6月11日 明智光秀、摂津国より下鳥羽の本陣に戻り「淀之城」普請に着手す。[兼見卿記]
羽柴秀吉、尼ヶ崎に着陣。[萩野由之氏所蔵文書]
6月12日 羽柴秀吉軍先鋒隊、京都山崎に於いて明智軍と交戦。[秋田家文書]
羽柴秀吉、摂津国富田に着陣。[金井文書]
6月13日 山崎の戦い 織田信孝・羽柴秀吉ら、「南方」より進軍し明智光秀軍と合戦。[言経卿記]
明智光秀、丹波国勝龍寺城を出撃し山崎へ進軍。[高木文書]
羽柴秀吉、山崎に陣取り高山重友・中川清秀・堀秀政は街道筋から明智軍に攻撃を開始。[金井文書]
池田恒興、南側から明智軍に攻撃を開始。[金井文書]
羽柴秀吉、加藤光泰・木村宗重・中村一氏を率い明智軍に攻撃を開始。[金井文書]
羽柴秀長、黒田孝高・神子田正治・前野長康・木下勘解由らを率いて山の手から明智軍に攻撃を開始。
[金井文書]
羽柴秀吉、丹波国勝龍寺城を「落居」させる。[多聞院日記]
明智光秀、山崎での合戦において織田信孝・羽柴秀勝・羽柴秀吉等と交戦、敗北。[公卿補任]
二条御所放火 明智軍、二条御所に放火す。[言経卿記]
織田信孝・羽柴秀吉ら、明智軍の首級を京都本能寺に梟首す。[言経卿記]
明智光秀土民に殺害 明智光秀、逃走中に京都郊外小栗栖村の土民に殺害される。[兼見卿記]
明智秀満自刃 明智秀満、近江国坂本城において自刃。[日本史人物生没年表]
羽柴秀吉、近江国において明智残党の掃討作戦を実行。
徳川家康、吉村氏吉へ織田信長弔いのため出陣する意思を表明。詳細は水野藤助に伝達させる。
[肥前吉村文書]
6月15日 安土城焼失 近江国安土城、焼失す。安土山下からの「類火」によるという。[兼見卿記]
羽柴秀吉、近江国安土ついで近江国長浜城に入城し家族と対面。
6月20日 羽柴秀吉清洲入城 羽柴秀吉、美濃国ついで尾張国清洲城に入城。
6月27日 清洲会議 清洲会議、開催。