TOP | 信長年譜  天正時代 四年〜六年
西暦 年号 信長年齢 信長所在地 事績/日 事     項
1576 天正 4年 43歳 岐阜 1月5日 信忠、「従四位下」に昇進。[公卿補任]
安土 1月中旬 安土築城 織田信長、丹羽長秀へ近江国安土山「御普請」を命令。[信長公記]
岐阜 二条御新造造営 二条御新造造営「御普請」を命令。[信長公記]
2月23日 近江国安土に「御座を移」す。普請の様子は織田信長「御意」に叶ったので、丹羽長秀に褒美として「周光茶碗」を下賜。近江国安土山下には馬廻衆の屋敷地が与えられた。[信長公記]
2月24日 近江国安土城へ移徙。[兼見卿記]
2月25日 織田軍、大和国森屋城を接収。[多聞院日記]
3月4日 勢田橋完成 織田信長の命令で勢田橋普請が大方出来上がる。吉田兼見は始めて勢田橋を見物。[兼見卿記]
4月1日 安土山の石垣構築を開始 織田信長、近江国安土山の石垣構築を開始。またその石垣上に「天主」構築を命令。尾張国・美濃国・伊勢国・三河国・越前国・若狭国・畿内の諸侍に普請役を課す。京都・大和国奈良・和泉国堺の大工・ゥ職人と「一観」を近江国安土に召喚し、天主台は「唐様」にする旨を命令。[信長公記]
4月2日 山城国東山慈照寺へ近江国安土城への移徙祝儀として十六島海苔を贈呈されたことを謝し、安土城普請が完成すれば上洛する予定を通知。[光源院文書]
4月22日 蒲生氏郷へ石山本願寺との戦闘で敵首2つを取った戦功を賞す。[杜本志賀文書]
4月29日 安土城より上洛 近江国安土城より上洛。[言継卿記]
京都 4月晦日 上洛し京都二条妙覚寺に寄宿す。[信長公記]
5月3日 石山本願寺攻め 二条晴良を訪問。[兼見卿記]
この早朝より石山本願寺一揆勢、数千挺の「鉄炮」を以て織田軍を攻撃、敗走させる。一揆勢の追撃を阻止した塙直政・塙安弘・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎が討死。[信長公記]
石山本願寺一揆勢、摂津国天王寺砦を守備する佐久間信栄・明智光秀・猪子高就・大津長昌らを攻囲。[信長公記]
5月4日 羽柴秀吉、下京まで上洛。
5月5日 未明に大坂へ向けて出陣。[言継卿記]
わずかに100騎ばかりの手勢を率いて出陣、摂津国大坂に向かう。河内国若江城に到着。[信長公記]
明智光秀・荒木村重・本多康重らの救援のため2000余の軍勢を率いて出陣。分国衆は追々上洛次第出征するという。[兼見卿記]
午刻に石清水八幡宮を通過。[多聞院日記]
石山本願寺攻め 5月6日 軍勢編制が難航 河内国若江城に在城。[兼見卿記]
京都 河内国若江城に於いて戦況についての情報を収集。織田軍の軍勢編制が難航する。[信長公記]
5月7日 本願寺籠城 自らの陣頭指揮により3千ばかりの軍勢を率い「三段に御備」て石山本願寺一揆勢1万5千に攻撃を仕掛ける。先ず住吉口より攻め込み、戸口まで進撃。信長は先手の足軽と共に攻撃に参加し的確に指令を発していたが、足に鉄炮疵を負うなど負傷するも一揆勢を撃破し天王寺砦に入る。敵首2700余を獲った。[信長公記]
6月5日 石山本願寺に対する守備を調えて河内国若江城に宿泊。[信長公記]
6月6日 南方陣(大坂)より上洛。[言継卿記]
南方陣より帰還。吉田兼見は路次において出迎える。[兼見卿記]
6月7日 妙覚寺において公家衆の祗候を受けるも対面せず。[兼見卿記]
6月8日 未刻に今道(新道)を経て安土城に帰還。[兼見卿記]
安土 6月23日 近江国安土城に於いて大和国興福寺別当職の件に裁決を下す。[多聞院日記]
この頃 信長が大乗院尋円と東北院兼深の確執の処置を誤って禁中において度々糺明された武家伝奏の「四人之衆」勧修寺晴右・中山孝親・甘露寺経元・庭田重保を譴責。[兼見卿記]
7月1日 再度安土城普請を命令 再度近江国安土城普請を命令。功労者には褒美を下賜。[信長公記]
7月13日 木津川口の海戦 毛利水軍、和泉国堺津住吉表から摂津国木津川口に進み織田水軍に攻撃を開始、戦闘は明朝まで継続。[毛利家文書]
7月14日 毛利水軍、摂津国木津川口に於いて織田水軍との戦闘で勝利。[毛利家文書]
7月21日 稲葉一鉄へ城普請用の人夫供出を謝す。[豊後臼杵稲葉文書] [中井孝三氏所蔵文書]
京都 11月4日 吉田兼見、織田信長出迎えのため午刻に細川藤孝・吉田兼治と共に山科へ出発。
安土 申刻に織田信長は上洛し、吉田兼見らは路次に於いて挨拶する。[兼見卿記]
11月5日 公家衆、織田信長に祗候するも、遅参により謁見は無くなる。[兼見卿記]
11月6日 織田信長、京都東山において鷹狩す。
この朝の訪れた使者の通達により吉田兼見、茶菓子を携え東山慈照寺へ祗候、信長に謁見。
織田信長は「一段之御機嫌」であった。[兼見卿記]
11月13日 正三位昇進 正三位に昇進(右大将はもとのまま)。[公卿補任]
11月21日 内大臣就任 内大臣に就任。[公卿補任]
正親町天皇、織田信長へ小葵模様の冬直衣を下賜。[言継卿記]
11月23日 禁裏へ御礼として銀100枚を献上、その後織田信長は石山へ下向し一両日滞在。[兼見卿記]
11月25日 安土帰城 近江国安土城へ帰城。
12月10日 三河吉良放鷹 三河の吉良に鷹狩りのため東下し、佐和山城に入る。
岐阜 12月11日 岐阜に泊まる。
12月13日 清洲城に着き、しばらく逗留。
12月22日 この日より3日間吉良で鷹狩り。
12月26日 岐阜年越 清洲に戻り、晦日岐阜城にて年越しをする。
1577 5年 44歳 安土 1月2日 安土帰城 近江国安土城へ帰城。
1月4日 城中茶会 城中で茶会を開く。[宗及他会記]
1月5日 正四位下に昇進(但し非参議)。[公卿補任]
京都 1月14日 入京 上洛。[多聞院日記]
1月18日 正親町天皇、信長に太刀を下賜する。[言継卿記]
1月19日 朝廷に太刀・馬などを献上する。[兼見卿記]
1月24日 三河名物の菱を献上する。[兼見卿記]
安土 1月25日 安土帰城 未明に近江国安土へ下向。[兼見卿記]
京都 2月8日 入京 上洛。吉田兼見、吉田兼治を同行し山科において織田信長を出迎える。織田信長の今度の上洛は南方調略(一向衆徒対策)の目的だという。[兼見卿記]
紀伊雑賀攻略 2月13日 京都出陣 10万余の軍勢を率いて南方へ出陣。[兼見卿記]
雑賀 織田信忠・織田信孝・織田信雄らの「分国人数」15万余騎を率いて河内国へ出陣。[兼見卿記]
「一揆退治」のための軍事行動であった。[多聞院日記]
淀川を渡河し紀伊国鳥取郷若宮八幡宮に布陣。[兼見卿記]
2月14日 雨天のために紀伊国鳥取郷若宮八幡宮に滞陣。[兼見卿記]
2月15日 紀伊国鳥取郷若宮八幡宮から河内国若江城へ到着。[兼見卿記]
泉州表へ出陣し根来寺衆徒を味方に紀伊国雑賀衆を攻撃。[兼見卿記]
2月16日 和泉国香庄に布陣。[兼見卿記]
2月18日 和泉国佐野郷へ進軍。[兼見卿記]
2月22日 和泉国志立に移動。[兼見卿記]
2月28日 淡輪着陣 和泉国淡輪まで進軍。[兼見卿記]
京都 3月1日 雑賀の鈴木孫一の居城を一斉攻撃する。
3月2日 鳥取郷の若宮八幡宮に移陣する。
3月15日 雑賀一揆を屈服。[信長公記]
雑賀党の7頭目である鈴木重秀・栗村三郎大夫・嶋本左衛門大夫・宮本兵部大夫・松田定久・岡崎三郎大夫・土橋若大夫へ今度の「雑賀」の「成敗」を前に織田側として忠節を尽くすという誓紙を受け、「赦免」することを通達。また小雑賀に向かい、在陣している軍勢にも指示を下すことを通達。[土橋文書]
3月21日 佐野に要害を築き織田信長・杉の坊を定番とする。[兼見卿記]
雑賀一揆を平定し帰途につく。[兼見卿記]
若江。[兼見卿記]
3月24日 八幡。[兼見卿記]
3月25日 帰洛して妙覚寺に凱旋する。[兼見卿記]
安土 3月27日 安土帰城 近江国安土城へ帰還。[兼見卿記]
京都 閏7月6日 二条御新造造営 上洛し二条新第に入る。信長政権の京都の政庁となる。[兼見卿記]
閏7月11日 去年来より村井貞勝に命令していた禁裏築地普請の首尾を見物、参内。そのため堂上衆・堂下衆が悉く参内。織田信長、禁裏および誠仁親王へ越後布30端を献上。[兼見卿記]
閏7月12日 近衛信基の元服にあたり加冠、理髪は広橋兼勝、諸家は1人残らず出頭。退出後、贈物の披露は織田信張。[兼見卿記]
閏7月13日 近江国安土へ下向。山岡景隆の勢田城(瀬田)に泊まる。[兼見卿記]
安土 閏7月14日 安土帰城 近江国安土城へ帰還。[兼見卿記]
8月8日 加賀へ出兵 上杉謙信に備え柴田勝家を大将、羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益・稲葉一鉄らを加賀国に派遣。[信長公記]
8月12日 任助法親王・大覚寺尊信・上賀茂社・伏見社・吉田兼見等、織田信長の二条新第の堀普請の人足供出を賦課される。[兼見卿記]
9月29日 二条御新造竣工 信長の二条新第竣工。[兼見卿記]
信長、大和国信貴山城へ軍勢を派遣。奈良中へは陣取りは無く、多聞院英俊は「珍重々々」と評す。
[多聞院日記]
10月10日 松永久秀滅亡 信長、織田信忠を大将に、羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・佐久間信盛らを従軍させ、反旗を翻した松永久秀を大和国信貴山城で自害させる。[信長公記]
10月13日 信忠、帰陣上洛。[兼見卿記]
10月15日 信忠、左中将・従三位に昇進。[公卿補任]
10月22日 羽柴秀吉、上洛。[兼見卿記]
10月23日 秀吉中国遠征 羽柴秀吉、播磨国へ出陣して中国経略を開始。[兼見卿記]
京都 11月14日 入京 織田信長、未明に上洛。[兼見卿記]
11月16日 織田信長、従二位に昇進。[公卿補任]
11月18日 織田信長、禁中へ参内し小御所で「御盃」を受け、その後に東山において鷹狩を行う。「大雷」により間もなく帰京。[兼見卿記]
11月20日 右大臣任官 織田信長、右大臣に任官。[公卿補任]
11月27日 羽柴秀吉、備前国宇喜多氏の播磨国七条城(上月城)を攻略し尼子勝久・山中幸盛に守備させる。
安土 12月3日 安土帰城 近江国安土城へ帰還。[信長公記]
12月7日 羽柴秀吉、播磨国七条城(上月城)を奪取。
三河 12月10日 三河吉良放鷹 三河の吉良に鷹狩りのため下向して佐和山に泊まる。
12月11日 垂井。
12月12日 岐阜。
12月14日 清洲。
12月15日 吉良にて鷹狩り。
岐阜 12月19日 岐阜に戻る。
安土 12月21日 安土帰城 安土城へ帰城。[信長公記]
12月中旬 羽柴秀吉、安土城へ登城し織田信長へ戦果を復命。[信長公記]
1578 6年 45歳 1月6日 信長、正二位に昇進。[公卿補任]
1月11日 明智光秀、近江国坂本城に於いて津田宗及を招き茶会を催す。
1月12日 黄金一万枚 堺の豪商津田宗及が安土に年賀の礼参に訪れた際、信長から直々に安土城内を案内され居間の襖絵を見物した後、「黄金一万枚ほと見申候」と日記に記している。[宗及他会記]
1月13日 鷹狩りのため東下して柏原に泊まる。
三河 1月14日   岐阜城に入り、逗留。
1月16日 清洲。
1月18日 吉良にて鷹狩り。
1月21日 三河国岡崎城へ到来す。[家忠日記]
1月22日 尾張国へ向けて三河国岡崎城を発す。[家忠日記]
1月23日   岐阜城に入り、逗留。
安土 1月25日 安土帰城 安土城へ帰城。[信長公記] 武田勝頼を牽制する軍事的な目的?
3月6日 近江の奥の島山に放鷹する。宿泊は長命寺の若林坊。[信長公記]
3月8日 安土に帰る。[信長公記]
2月23日 羽柴秀吉、播磨国へ出陣し書写山に在陣。〔「信長公記」〕
3月13日 上杉謙信没 上杉謙信、病没。[日本史人物生没年表]
京都 3月23日 入京 申刻に上洛。[兼見卿記]
3月25日 信長病む 信長、朦気を病み公家衆(「ゥ家」)との対面は中止。[兼見卿記]
4月2日 羽柴秀吉、毛利軍と紀伊国「雑賀者共」が連合して別所孫右衛門の播磨国阿閉砦に攻撃を仕掛けたのに対し、黒田孝高を派遣して撃破させる。[黒田文書]
羽柴秀吉、織田信長へ宛て戦況報告の注進状を発す。[黒田文書]
4月8日 織田信忠ら、摂津国大坂表より帰陣。[兼見卿記]
4月9日 信長、右大臣・右大将を辞任。[兼見卿記]
安土 4月22日 安土帰城 安土城へ帰城。[信長公記]
4月27日 入京 上洛。[兼見卿記]
京都 4月29日 信忠らに尾張、美濃、伊勢の兵を率いて播磨に出馬させる。[信長公記]
5月7日 京都・安土大洪水 この日より大雨が続き京都市中が大洪水となる。信長13日の出陣を延期する。[信長公記]
安土 5月27日 安土の洪水災害視察のため下向し、大津の松本より草津の矢橋まで乗船して安土に帰城。[信長公記]
京都 6月10日 入京 未の刻に上洛。[信長公記]
6月16日 羽柴秀吉、信長の指示を仰ぐため密かに上京し、上月城の尼子氏を見捨て三木城攻略に全力を注ぐよう命令を受ける。[信長公記]
6月21日 未明に安土へ下向。[信長公記]
安土 6月26日 淡輪沖海戦 羽柴秀吉、高倉山を撤収し三木城攻撃のために平井山に移陣。[信長公記]
九鬼嘉隆、新造の鉄船を率いて紀伊国熊野浦に出撃し紀伊国雑賀一揆・淡輪一揆を撃破。[信長公記]
6月27日 羽柴秀吉、播磨国神吉城(別所長治の属城)を攻撃し敗退。[信長公記]
6月28日 九鬼嘉隆、新造の鉄船を率い和泉国淡輪沖で海戦す。[信長公記]
7月18日 九鬼嘉隆、新造の鉄船にて大阪湾の海路を封鎖。[信長公記]
7月20日 織田信忠・羽柴秀吉ら、播磨国神吉城攻略に成功。[信長公記]
播磨国神吉城、陥落す。[多聞院日記]
8月5日 南部季賢、近江国安土城の織田信長へ鷹5足を進上。[信長公記]
8月10日 南部季賢を万見重元の安土屋敷に於いて饗応す。[信長公記]
遠路より近江国安土へ鷹を持参した南部季賢へ「綱切貞宗」を下賜。[新羅之記録]
織田信忠・羽柴秀吉ら、播磨国志方城を攻略。[信長公記]
8月15日 安土山において相撲を興行する。[信長公記]
8月17日 織田信忠、美濃国岐阜へ帰還す。[信長公記]
京都 9月23日 上京の途につき瀬田城に泊まる。[信長公記]
9月24日 辰刻に入京し、二条御新造に入る。[兼見卿記]
9月27日 甲鉄船視察のために下向し石清水八幡宮に着く。[信長公記]
9月28日 河内の若江。[信長公記]
9月29日 天王寺に着き、佐久間信盛の陣所で暫く休み、道すがら放鷹しながら住吉大社に着き、社家に宿泊。
9月30日 甲鉄船視察 朝方九鬼嘉隆率いる鉄船を視察する。[信長公記]
ついで、津田宗及ら堺衆の屋敷に立ち寄り、住吉社家に戻る。[信長公記]
10月1日 帰京 夜、帰京。[兼見卿記]
10月5日 相撲興行 五畿内、近江から相撲取りを集め二条御新造にて相撲を興行する。[信長公記]
畿内より「スマウノ名仁」を召集し「禁裏」に於いて「スマウ」を興行す。[多聞院日記])
10月6日 安土帰城 坂本より乗船して安土に帰城する。[信長公記]
安土 10月15日 羽柴秀吉、茶会を開催して津田宗及を招く。[宗及他会記]
11月3日 入京 上洛し、二条御新造に入る。
京都 11月6日 木津川口の海戦 九鬼嘉隆、大船6艘を率い大阪湾に於いて毛利水軍600余艘を撃破。[信長公記]
11月9日 京都から摂津国へ向けて出陣。山城国山崎に布陣。
11月13日 入京 安土より入京して羽柴秀吉へ荒木村重謀反に対する処置を命令。[信長公記]
11月14日 織田軍、荒木村重の籠城する摂津国有岡城に攻撃を開始。[信長公記]
11月15日 摂津国郡山に移陣す。[信長公記]
11月17日 高山重友(摂津国高槻城主)の出仕を受ける。[信長公記]
11月18日 摂津国総持寺に移陣す。[信長公記]
11月24日 摂津国刀根山へ進軍し中川清秀(摂津国茨木城主)を勧降させる。[信長公記]
11月27日 郡山より古池田に移陣する。[信長公記]
11月28日 昆陽に移陣する。[信長公記]
12月3日 織田軍、摂津国大矢田城(荒木村重の属城)を陥落させる。[信長公記]
12月8日 堀秀政らに摂津国有岡城を攻撃させる。[信長公記]
12月21日 入京 摂津国より上洛。[信長公記]
12月25日 安土帰城 安土城へ帰城。[信長公記]