TOP | 信長年譜  天正時代 元年〜三年
西暦 年号 信長年齢 信長所在地 事績/日 事     項
1573 天正 元年 40歳 岐阜 2月20日 仲違いした足利義昭の内命により近江国今堅田城に籠城した光浄院暹慶・磯貝新右衛門渡辺党らを攻撃するために柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆を派遣する。[信長公記]
2月24日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、近江国勢田を渡海して足利義昭与党の籠もる近江国石山城へ攻撃を開始する。[信長公記]
2月26日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、足利義昭与党の籠もる近江国石山城を攻略、破却す。
[信長公記]
2月29日 織田信長の命令を受けた柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、辰刻に近江国今堅田城への攻撃を開始。[信長公記]
明智光秀、午刻に近江国今堅田城の防衛線を突破。近江国志賀郡の過半を制圧す。[信長公記]
明智光秀、近江国今堅田城を攻略。[兼見卿記]
3月25日 上洛のために美濃国岐阜城を出陣。[信長公記]
京都 3月29日 入京 細川藤孝・荒木村重、織田信長への「御身方の御忠節」として近江国逢坂に於いて出迎える。
[信長公記]
織田信長軍、京都粟田口へ着陣。[兼見卿記]
織田信長軍、三条河原へ出撃。足利義昭、幕府御所に拠る。[兼見卿記]
京都知恩院に布陣。[信長公記]
4月3日 洛外の堂塔寺庵を除外して放火する。[信長公記]
4月4日 山城国賀茂から嵯峨に至る在所を悉く焼き払う。[兼見卿記]
足利義昭、信長による京都上京放火を目の当たりにし「御和談」を申し入れる。〔『信長公記』巻六〕
参内し禁裏警固を検分、間もなく本陣へ帰還。[兼見卿記]
4月5日 正親町天皇、信長へ二条晴良・三条西実枝・庭田重保を勅使として派遣、足利義昭との和議を講じさせる。[兼見卿記]
4月6日 織田信広、「信長公御名代」として足利義昭と会見し和睦を「入眼」す。[信長公記]
4月7日 京都より撤収。この日は近江国守山を経由して百済寺に布陣。[信長公記]
この頃 織田信長、近江国百済寺と「一揆同意」した六角義治の籠城する近江国鯰江城を攻撃するため佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家を四方に配置。[信長公記]
4月8日 美濃国岐阜城へ向けて京都を発す。[兼見卿記]
岐阜 4月11日 近江国百済寺を灰燼に帰させる。[信長公記]
美濃国岐阜城に帰還。[信長公記]
4月12日 武田信玄死去 武田信玄、信濃国駒場に於いて病没。
4月15日 近江国佐和山城に到着。[吉村文書]
佐和山 5月22日 大船建造 近江国佐和山城へ移り、「大船」建造を急ぐ。[信長公記]
7月3日 義昭再挙兵 足利義昭、織田信長に対して「御敵の御色を立て」て京都二条城は「日野殿」・高倉永相(「藤宰相殿」)・伊勢伊勢守・三淵藤英に任せ、足利義昭自身は山城国槙島城へ移る。[信長公記]
7月5日 信長、「事も生便敷大船」を完成させる。[信長公記]
7月6日 織田軍先勢、近江国大津に着陣。[兼見卿記]
風にもかかわらず新造の「大船」に乗船し近江国坂本へ着陣。[信長公記]
京都 7月7日 入洛して京都二条妙覚寺に布陣。二条城を攻囲する。[信長公記]
7月8日 織田軍先勢、上洛し祇園・四条道場にそれぞれ陣取る。[兼見卿記]
7月9日 上洛し妙覚寺を陣所とする。[兼見卿記]
7月12日 織田信長、京都二条城を破却。[兼見卿記]
7月16日 山城国槙島城攻略のために宇治五ヶ庄の上の「やなき山」に本陣を構え、配下に対し即時宇治川の渡河と山城国槙島城への攻撃を命令。[信長公記]
織田軍、山城国久世郡各所に陣取り槙島城を包囲。[兼見卿記]
7月17日 山城国宇治郡五ヶ庄へ出陣。[兼見卿記]
槙島城攻略 7月18日 足利義昭追放 巳刻に山城国槙島城への攻撃を開始し焼き打ちする。[信長公記]
京都 山城国槙島城を焼き打ちする。足利義尋(「若公様」:足利義昭嫡男)を人質とし、河内国若江城までの警固役を羽柴秀吉に命ず。
室町幕府滅亡 この頃 足利義昭、この逃亡中に「御鎧の袖をぬら」し、人々に「貧報公方」と嘲哢され「御自滅」と申す様子は目も当てられぬほどであった。[信長公記]
7月21日 京都に入り「御馬を納れ」る。[信長公記]
7月27日 木戸・田中城光秀に 京都を発し近江国高島郡へ「大船」を以て参陣。残敵の籠もる近江国木戸城・田中城を攻略。[信長公記]
7月28日 天正改元 この日、「天正」と改元される。[信長公記]
信長、「天下所司代」に村井貞勝を任命す。村井貞勝は在洛して、「天下諸色」を担当するよう命令を受けた。[信長公記]
8月2日 岩成友通、織田信長の命を受けた細川藤孝らとの山城国淀城攻城戦に於いて討死。
岐阜 8月4日 岐阜に帰城 美濃国岐阜城へ帰還。[信長公記]
8月8日 夜中出陣 阿閉貞征が「御身方」として蜂起したのを受け、この夜中に江北方面へ出陣する。[信長公記]
朝倉義景攻略 8月10日 近江国大嶽北方の山田山に布陣し越前国との通路を遮断す。[信長公記]
岐阜 織田軍が近江国小谷城に攻撃を仕掛けたところ、朝倉義景が出撃し木本・多部山に布陣したので、小谷城と朝倉義景陣所を遮断する布陣を敷く。[本願寺文書]
8月12日 浅見対馬の内応により「大づくの下」焼尾へ進軍。また、近江国虎御前山城へは織田信忠を配備する。
[信長公記]
8月13日 越前乱入 近江国「太山大づく」(太尾山)に在陣していた朝倉軍を襲撃す。[信長公記]
近江国「ようの山」(丁野山)朝倉軍を襲撃す。[信長公記]
この夜中に朝倉義景の陣所を攻撃。朝倉義景、夜陰に乗じ「名ある程の者共」を率いて近江国田上山を撤収、若狭国敦賀に向けて敗走す。[信長公記]
撤退する朝倉義景「同名親類」・「随一之者共」3000余を追撃、殺害・捕獲し越前国へ乱入。
[乃美文書正写][武家事紀]
織田軍、「大づく」・「焼け尾」・「つきがせ」・「ようの山」・「たべ山」・朝倉義景の本陣田上山・引檀・敦賀・志津ヶ嵩を陥落させる。[信長公記]
越前国敦賀に逗留。[信長公記]
8月14日 兼松正吉、中村新兵衛を越前国八田口刀根山に於いて討ち取る。[信長公記]
斎藤龍興、織田軍の攻撃により越前国刀禰坂で戦死。[信長公記]
8月15日 越前国敦賀に逗留。[信長公記]
8月17日 木目峠を越えて越前国へ乱入す。[信長公記]
8月18日 越前国府中竜門寺に布陣。[信長公記]
朝倉義景、越前国一乗谷城を退去し賢松寺へ逃亡。[信長公記]
8月20日 朝倉義景自刀 朝倉義景、越前国賢松寺にて自刀。
8月26日 近江国虎御前山へ帰陣。[乃美文書正写][武家事紀]
浅井長政攻略 8月27日 近江国小谷城へ攻撃を開始。[乃美文書正写][武家事紀]
岐阜 羽柴秀吉、近江国小谷城京極丸を攻撃し、浅井久政・浅井長政の連携を遮断。最初に浅井久政の居城を攻略。浅井福寿庵が生害した。[信長公記]
8月28日 近江国小谷城京極丸を攻撃し、浅井長政・赤生美作守を生害させ、浅井久政・浅井長政父子の首級は獄門にかけるために京都へ送付する。[信長公記]
9月1日 小谷落城 羽柴秀吉、近江国小谷城本丸を攻略し浅井長政は自害。お市の方と子(三姉妹)は落城直前に救出された。
9月4日 近江国佐和山城へ入り、柴田勝家へ近江国鯰江城攻略を命令。[信長公記]
9月6日 岐阜に帰城 美濃国岐阜城へ凱旋。[信長公記]
9月10日 杉谷善住坊処刑 杉谷善住坊、磯野員昌に捕獲され美濃国岐阜へ連行される。[言継卿記]
9月24日 長島一向一揆攻め 北伊勢に向けて出陣。美濃国大垣城に宿泊。[信長公記]
美濃 9月25日 美濃国大田の小稲葉山城に布陣。[信長公記]
岐阜 9月26日 伊勢国桑名方面へ軍勢を派遣。西別所の「一揆」勢に対して佐久間信盛・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・丹羽長秀を以て攻撃、殲滅させる。[信長公記]
10月6日 柴田勝家・滝川一益、伊勢国坂井の片岡城を攻略。[信長公記]
柴田勝家・滝川一益、伊勢国深谷部の近藤城を攻撃し「かねほり」を以て降伏させる。[信長公記]
10月25日 伊勢国北部より撤し美濃国大垣城に到着。[信長公記]
10月26日 美濃国岐阜城に帰陣。[信長公記]
11月4日 上洛。二条妙覚寺を宿所とする。[信長公記]
11月5日 足利義昭、河内国若江城より和泉国堺へ移動。
京都 11月9日 足利義昭、紀伊国へ向かうため和泉国堺を出発。
11月16日 三好義継、足利義昭を匿った罪で織田信長の命令を受けた佐久間信盛等に攻撃され河内国若江城に於いて自刃。[日本史人物生没年表]
12月2日 岐阜に帰城 美濃国岐阜城に帰城する。[信長公記]
12月12日 安国寺恵瓊の予言 安国寺恵瓊、国許の山県越前守・井上春忠に対する報告で「京都之儀」及び足利義昭の帰洛に関する織田側と足利義昭側の調停の状況、中国方面の状況、信長が「明年辺者公家なとに可被成候」という見通しとその後の「高ころひにあおのけにころはれ候すると見え申候」という予言を、また羽柴秀吉については「さりとてハの者にてニて候」という評価を通知。[吉川家文書]
1574 2年 41歳 岐阜 1月1日 岐阜城参賀 織田信長、美濃国岐阜城に於いて京都周辺の面々の「出仕」を受けて各自に3献ずつ下賜。「他国衆」退出後「御馬廻」のみで朝倉義景・浅井久政・浅井長政の首級「薄濃」を酒肴に祝勝会を行う。[信長公記]
1月17日 信長、明智光秀へ子息十二郎を筒井順慶の養嗣子として、娘2人を細川忠興と織田信澄にそれぞれ嫁がせることを約束させる。
1月18日 上杉謙信、上野国西部に出撃。
1月19日 北陸異変 越前国に於いて一揆が蜂起。越前国府中城将富田長繁、「越前の大国守護代」前波長俊(「前波播磨」)を殺害。[信長公記]
前波長俊殺害の報に接し、羽柴秀吉・武藤舜秀・丹羽長秀・不破光治・不破彦三郎・丸毛兵庫頭・丸毛三郎兵衛・若州衆を越前国一揆鎮圧のために越前国敦賀へ出陣させる。[信長公記]
2月1日 武田勝頼が攻囲している美濃国明智城へ尾張衆・美濃衆から編制された援軍を派遣。[信長公記]
2月4日 佐久間信盛へ武田勝頼が美濃国明智城を攻撃したのに対して「十六かしら」を随行させ出撃を命令。
[荻野由之氏旧蔵文書]
佐久間信盛、美濃国明智城救援のために出陣。[荻野由之氏旧蔵文書]
2月5日 明智城赴援 信長・信忠、美濃国明智城救援のために出陣し美濃国御嵩に布陣。[信長公記]
信長・信忠、美濃国神箆に布陣。[信長公記]
武田勝頼、美濃国明智城内の「いゝばさま右衛門」を内応させて攻略する。[信長公記]
2月6日 信長・信忠、美濃国明智城救援のために山中を行軍。[信長公記]
2月24日 岐阜に帰城 信長・信忠、美濃国岐阜城へ帰城。[信長公記]
3月12日 上洛 上洛す。[信長公記]
2・3日ほど近江国佐和山城に逗留。[信長公記]
京都 3月13日 六角義賢・六角義治父子、近江国石部城を脱出。
3月16日 織田信長、近江国永原に宿泊。[信長公記]
3月17日 相国寺寄宿 近江国支那より坂本へ「渡海」す。[信長公記]
上洛して相国寺に初めて寄宿する。また大和国東大寺所蔵の「蘭奢待」を所望する旨を正親町天皇へ奏聞する。[信長公記]
柴田勝家、信長の上洛に際し十市遠長を同行して上洛。[多聞院日記]
3月18日 信長、正四位下に昇進。[公卿補任]
3月26日 「大乗院新御所」、京都宇治まで信長を出迎える。[多聞院日記]
3月27日 大和国衆も悉く信長を出迎えに京都へ上る。[多聞院日記]
信長を出迎えるために大和国神人は100人、地下衆は1町より10人ずつ肩衣・袴の装束で木津まで出向く。[多聞院日記]
荒木村重・武井夕庵・松井友閑、「重御奉行」は津田坊であった。[信長公記]大和国奈良多聞山城に到着。「御奉行」は塙直政・菅屋長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・
4月1日 この朝早々に大和国奈良を出立。[多聞院日記]
4月13日 近江国石部城に六角義賢・六角義治を攻囲、陥落させる。六角義賢は雨夜に紛れて近江国石部城を脱出。織田信長、近江国石部城には佐久間信盛を配置する。[信長公記]
5月5日 「賀茂祭」の「競馬御神事」が「天下御祈祷」のために挙行された。信長は幸いにも在洛中であったので「度々かち合戦にめさせられ候蘆毛の御馬」をはじめ駿馬を出して「何れも勝」った。[信長公記]
5月16日 この日の「四之時分」に大和国へ下国。鷹広栖に於いて子を産むところを見物するためという。[多聞院日記]
岐阜 5月28日 美濃国岐阜城に下向。[信長公記]
三河 6月14日 信長・信忠、遠江国高天神城救援のために美濃国岐阜城を出陣。[信長公記]
6月17日 高天神城赴援 三河国吉田城に着陣。[信長公記]
武田勝頼、遠江国高天神城を陥落させる。織田・徳川氏の来援が遅れたため小笠原長忠は降伏。三河国岡崎に到着。
6月19日 信長・信忠、三河国今切を渡る前に小笠原与八郎の「逆心」により遠江国高天神城が陥落した旨を知り、三河国吉田城へ引き返す。[信長公記]
岐阜 6月21日 岐阜に帰城 信長・信忠、美濃国岐阜城に帰城。[信長公記]
7月13日 長島へ出陣 信長・信忠、伊勢国河内長島一揆を鎮圧するために出陣。伊勢国津島に布陣。[信長公記]
長島一向一揆攻略 7月15日 九鬼嘉隆・滝川一益・伊藤三丞・水野直盛・島田秀満・林秀貞・北畠信雄・織田信雄ら、伊勢国河内長島一揆鎮圧のため水軍を率いて参陣。[信長公記]
岐阜 8月2日 織田軍、この夜に夜陰と風雨に紛れて伊勢国大鳥居城を脱出しようとした一揆勢1000人ばかりを殺害。
[信長公記]
8月3日 伊勢国長島一揆の拠点大鳥居を攻略。
8月12日 伊勢国「しのはせ籠城の者」の助命し長島に入城させる。[信長公記]
8月17日 伊勢国長島に出陣す。
9月23日 伊勢国長島城より一揆勢を退城させる。
9月29日 長島落城 伊勢国長島一揆の「御侘言」を許容して一旦長島城退去させたところ、船にて包囲し「鉄炮を揃へうたせ」て、「際限なく川へ切りすて」る。一揆勢中の腕利き者たち7・800人ばかりが「抜刀」で織田軍を襲撃。損害が甚大であった。[信長公記]
伊勢国長島の中江城・屋長島城に籠もる一揆勢2万ばかりを「焼ころし」を断行。[信長公記]
岐阜城へ凱旋 美濃国岐阜城へ凱旋。[信長公記]
京都 11月13日 上洛して、大和国方面と伊丹親興の反乱平定にあたる。織田軍、大和国岡の周辺へ進撃し放火す。
[多聞院日記]
羽柴秀吉、夕刻に大和国奈良へ到来。[多聞院日記]
11月16日 織田軍、大和国奈良より退却。[多聞院日記]
岐阜 11月25日 岐阜に帰城 信長、帰国す(美濃国岐阜?)。[多聞院日記]
1575 3年 42歳 美濃・近江 2月27日 上洛のために美濃国垂井まで移動。[信長公記]
2月28日 雨のため美濃国垂井に滞留。[信長公記]
2月29日 丹羽長秀の守備する近江国佐和山城に入る。[信長公記]
3月2日 近江国永原に宿泊す。[信長公記]
京都相国寺に寄宿す。[信長公記]
京都 3月3日 入京 新道を経て上洛。吉田兼見、満千代を同行し山中辺で織田信長を迎礼す。馬上より満千代へ餅を下賜。織田信長、相国寺慈照院を宿所とする。[兼見卿記]
「在京」す。[多聞院日記]
3月16日 今川氏真を引見 織田信長、今川氏真の「出仕」を受ける。[信長公記]
3月20日 (今川義元の子) 織田信長、京都相国寺に於いて今川氏真と公家衆との蹴鞠を見物す。[信長公記]
3月22日 細川藤孝へこの秋に「大坂合戦」(石山本願寺との戦闘開始)の予定を通達。また、丹波国舟井郡・桑田郡の「諸侍」を与力とする命令を下す。[細川家文書]
4月6日 京都より直接河内国(「南方」)へ出陣。この日は八幡に布陣。[信長公記]
4月7日 河内国若江に到着、布陣。[信長公記]
4月8日 駒ヶ谷山に布陣。織田軍は誉田八幡道明寺周辺に布陣。[信長公記]
4月12日 摂津国住吉に陣替。[信長公記]
4月13日 摂津国天王寺に移陣。織田軍は天王寺・住吉・遠里小野周辺に布陣する。[信長公記]
4月14日 本願寺攻撃 織田軍、石山本願寺(「大坂」)を攻撃。「作毛悉く薙捨て」た。[信長公記]
4月17日 和泉国新堀城を攻囲。[信長公記]
4月19日 織田軍、和泉国新堀城を総攻撃し陥落させる。香西越後は捕虜として織田信長のもとへ引き立てられ、
誅殺された。[信長公記]
4月20日 信長および織田軍、夕刻に河内国より帰京。[多聞院日記]
4月27日 京都を発し近江国常楽寺を上り、近江国佐和山城に入る。[信長公記]
4月28日 この日の辰刻に美濃国岐阜城へ帰城。[信長公記]
岐阜 5月13日 信長父子出陣 信長・信忠、三河国長篠城の後詰として出陣。この日は尾張国熱田に布陣し、熱田社荒廃に対して御大工岡部又右衛門に造営の件を命令する。[信長公記]
長篠の戦い 5月14日 信長・信忠、三河国岡崎城に到着。[信長公記]
岐阜 5月16日 信長・信忠、三河国牛窪城に入り、城の警固役として丸毛兵庫頭・福田三河守を配備。[信長公記]
5月17日 信長・信忠、三河国野田原に野陣を設営。[信長公記]
5月18日 「志多羅」郷極楽寺山に布陣し、武田軍に姿が見えないように各部隊を配備させる。[信長公記]
三河国長篠より3里余りの地点に於いて武田軍と遭遇。「鉄炮放」で撃退する。[細川家文書]
信忠、「志多羅」郷新御堂山に布陣。[信長公記]
5月20日 この戌刻に軍勢を「のりもと川」を渡河し武田勝頼の布陣する鳶巣山へ向かわせる。[信長公記]
5月21日 長篠の戦い この辰刻に数百挺の「鉄炮」を発砲し三河国長篠城を救援。武田軍は敗北し鳳来山へ逃走。[信長公記]
高松山の徳川家康陣所を訪れ、武田軍の動向を把握。1000挺ばかりの「鉄炮」部隊を佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政に引率させて武田軍へ攻撃を加えさせた。[信長公記]
織田・徳川連合軍へ武田軍の山県昌景・武田信繁・「赤武者」小幡一党・「黒武者」の武田信豊一党・馬場信春が部隊毎に攻撃を仕掛けるも「鉄炮」と「足軽」によって大損害を被る。[信長公記]
三河国に於いて織田・徳川連合軍と武田軍が交戦。[多聞院日記]
武田軍を大破 武田軍ら大損害を被り、武田勝頼らは鳳来寺山へ向けて敗走。[信長公記]
5月25日 美濃国岐阜城に凱旋。[信長公記]
6月1日 信忠、正五位下に昇進。[公卿補任]
6月26日 凱旋上洛 近江国佐和山城に於いて休息をとり、「早舟」にて近江国坂本より渡海。小姓衆5、6名を随行させていた。[信長公記]
上洛 6月27日 上洛し相国寺に寄宿する。[信長公記]
京都 7月1日 諸将信長に礼参 信長、「摂家」・「清花」と播磨国の別所長治・別所孫右衛門、河内国の三好康長若狭国の武田元明、そのほか畿内周辺の逸見駿河・粟屋越中・熊谷伝左衛門・山県下野守・内藤筑前・白井某・松宮某・畑田某・塩河伯耆らの「出仕」を受ける。[信長公記]
7月3日 参内 宿老任官 「禁中」に於いて誠仁親王の蹴鞠興行が催される。[信長公記]
「御馬廻」ばかりを同行させ「御鞠」興行終了後に「くろ戸の御所御をき縁」に祗候し「天盃」を賜わる。[信長公記]
織田信長、「御官位を進められ候」という正親町天皇「勅諚」を拝辞。[信長公記]
松井友閑、「宮内卿法印」となる。[信長公記]
武井夕庵、「二位法印」となる。[信長公記]
7月12日 瀬田大橋築造 近江国勢田の「大橋」の修築を実施し、この日は吉日であったので「柱立」を行う。[信長公記]
7月15日 常楽寺周辺に「御到着」。[信長公記]
京都を発し美濃国岐阜城へ向かう。[信長公記]
美濃国垂井に宿泊。[信長公記]
岐阜 7月17日 岐阜に帰城 美濃国曽根(「楚根」)へ立ち寄る。
美濃国岐阜城へ帰還。[信長公記]
越前一揆一向討伐 8月12日 越前国に向けて美濃国岐阜城を出陣。美濃国垂井に布陣。[信長公記]
岐阜 8月13日 羽柴秀吉が守備している近江国小谷城に宿泊。羽柴秀吉より兵粮供出を受く。[信長公記]
8月14日 越前国敦賀に宿泊。武藤舜秀の宿所に布陣。[信長公記]
8月15日 織田軍先鋒隊と「越前牢人衆」3万余騎を越前国諸口より乱入させる。[信長公記]
越前国敦賀より木ノ芽峠および浜手へ軍勢を進発させる。織田軍は浜手の篠尾城・杉津城を攻略、敵軍の「数多くひ」を切り織田信長は「気を散」らす。〔「泉文書」〕
この夜、織田軍は三宅権丞の籠城する越前国府中竜門寺へ攻撃を仕掛ける。近辺の諸城へも放火す。[信長公記]
羽柴秀吉・明智光秀、越前国府中町中に於いて加賀国・越前国の一揆2000余騎を切り捨てる。[信長公記]
8月16日 府中は死骸ばかり 越前国敦賀を出立。1万余騎を率いて木目峠を経由し三宅権丞の籠城する越前国府中竜門寺を攻囲。[信長公記]
越前国木ノ芽峠へ「出馬」、明智光秀を浜手より越前国府中町へ向かわせる。信長は木ノ芽峠を突破するが、敵兵が越前国府中へ流入するのを防ぐため待機。明智光秀・羽柴秀吉、が越前国府中へ侵入し敵兵を掃討したこと、越前国は「一国平均」に属し「府中町ハ死かい計にて一円あき所な」い状態となる。[泉文書]
勧修寺晴豊・吉田兼見、越前国敦賀を出発し越前国府中に到着。羽柴秀吉(「羽柴藤吉郎」)陣所を訪問し面会。[兼見卿記]
織田軍、朝倉軍を越前国「木ノ辺」・「鉢伏」まで追撃。[多聞院日記]
8月17日 8月15日付書状を送付した村井貞勝へ全3ヶ条にわたり越前国の状況を通達。信長は8月15日に越前国敦賀より木ノ芽峠および浜手へ軍勢を進発させ、織田軍は浜手の篠尾城・杉津城を攻略し敵軍の「数多くひ」を切り信長は「気を散」らすほどの戦果であったこと、8月15日に明智光秀・羽柴秀吉が越前国府中へ侵入し敵兵を掃討したこと、8月15・16日の両日で越前国「一国平均」に属し「府中町ハ死かい計にて一円あき所な」い状態を「見せ度」く思うこと、8月17日に越前国内の残敵掃討戦を実行し、大将分の西光寺・下間頼総・若林某を討ち取ったこと、越前国が「即時属存分」という状態で諸口も同様に制圧するので安心すべきことなどを荒木村重・三好康長以下に伝達し「よろこはせ」るよう命令す。[泉文書]
越前国内の残敵掃討戦を実行。[泉文書]
越前国木芽城・鉢伏城を撃破して下間頼総・若林某・豊原西方院・朝倉三郎らを刎首。その後に軍勢を4分割し残敵掃討を実施。この日に織田信長陣所に到来した敵首は2千余であった。また捕虜7、80人は即時「くひを切」った。[高橋源一郎氏持参文書] [古文書纂]
8月18日 陣所にて方々より敵首500または600ずつ到来したのを受ける。総数は不明であった。
[高橋源一郎氏持参文書] [古文書纂]
柴田勝家・丹羽長秀・織田信澄、越前国鳥羽城を攻略し5・600人を討ち取る。[信長公記]
8月20日 越前国「ひなかたけ」山に菅屋長頼。前田利家・「馬廻」衆を投入し1000余人を討ち取り、捕虜100余人は即時「刎首」に処す。北畠信意・織田信雄・滝川一益、大滝・白山を攻略し平野定久・「あさみ」某をはじめ「鉄炮者共」50、60名を切り捨て、総数600余を討ち取った。また捕虜10、20名の捕虜を織田信長の陣所に送付。[高橋源一郎氏持参文書] [古文書纂]
8月21日 越前亡国 佐久間信栄の部隊が討ち取った500余の首注文と捕虜10余人を受け、即時「くひをきり」という処置をとる。[高橋源一郎氏持参文書] [古文書纂]
越前国風尾城に籠城し種々の投降要請を申し入れていたていた朝倉景健を「生害」させる。また朝倉景健「被官」の金子兄弟以下の「首をはね」る。[高橋源一郎氏持参文書] [古文書纂]
8月23日 越前国一乗谷に布陣。[信長公記]
8月28日 越前国豊原へ移陣。[信長公記]
9月2日 越前国豊原より越前国北ノ庄城へ移動し縄張を開始。[信長公記]
9月4日 織田軍、加賀国奧郡の反乱分子「大坂代坊主兵衛卿」・「松浦子共」ら1000余人を討ち取る。[二宮米太郎氏所蔵文書]
9月15日 京都妙覚寺を宿所とする。「公家衆」は織田信長の北国からの凱旋を祝賀。[兼見卿記]
9月16日 越前国北ノ庄に在陣。
9月23日 越前国北庄城より越前国府中へ移動。[信長公記]
9月24日 越前国府中を出発し近江国椿坂に宿泊。[信長公記]
9月25日 美濃国垂井に到着。[信長公記]
山城国愛宕郡の一乗寺辺で鷹狩りを行う。[兼見卿記]
9月26日 美濃国岐阜城に帰還。[信長公記]
10月10日 陸奥国より献上された鷹14足と鷂3足を伴い上洛す。この日は美濃国垂井に宿泊。[信長公記]
京都 10月11日 この日は近江国佐和山城に宿泊。[信長公記]
10月12日 「三条殿」・水無瀬兼成、織田信長を出迎えるために柏原に下向。[信長公記]
10月13日 近江国永原に寄宿。新たに架けられた勢田橋を見物するために陸路にて上京す。
上洛。[多聞院日記]
上洛し二条妙覚寺に入る。[信長公記]
10月20日 石山本願寺との和睦を締結。
10月28日 京都二条妙覚寺に於いて京都・和泉国堺の「数寄仕候者」17名を招喚し千宗易の点前による茶会を開催。「御座敷の飾」は「三日月の御壺」・「白天目」・「つくもかみ」・「おとごぜの御釜」・「松島の御壺」であった。[信長公記]
11月4日 「御昇殿」し「大納言の御位」に任じられる。[信長公記]
権中納言・従三位に昇進。[公卿補任]
11月7日 朝廷において織田信長任大将の「陣儀」が行われる。[兼見卿記]
「御拝賀の御礼」があり、正親町天皇より「御かはらけ」を下賜された。また、信長は「右大将」を兼任することになり、正親町天皇へ莫大な砂金・巻物を献上。
献上物は正親町天皇「叡覧」を受けた後に「ゥ公家衆」が「御支配」した。また知行安堵も行われた。[信長公記]
織田信長、右大将に就任。[公卿補任]
織田信忠、秋田城介に就任。[公卿補任]
織田信雄、左近衛権中将に就任。
11月13日 美濃国岐阜へ下向。[多聞院日記]
11月14日 岩村落城 武田勝頼の美濃国岩村城への侵攻により京都を出立。[信長公記]
岐阜 俄かに岐阜へ帰還。[兼見卿記]
11月15日 美濃国岐阜城に到着。[信長公記]
11月28日 信忠に家督譲与 信長、信忠に織田「家督」を譲与す。
織田信長は織田信忠へ「星切りの御太刀」などの重宝を与え、織田信忠へ「尾州・濃州共に御与奪」なされ、織田信長自身は「御茶の湯道具」のみを携え、佐久間信盛邸に移る。[信長公記]