TOP | 信長年譜  元亀時代
西暦 年号 信長年齢 信長所在地 事績/日 事     項
1570 元亀 元年 37歳 岐阜居城 1月23日 義昭に条書を送る 朝山日乗・明智光秀へ全5ヶ条の「条々」を提示、足利義昭もこれに同意す。
[成簣堂文庫氏所蔵文]
天下静謐 各方面に「触状」を発す。その内容は「禁中御修理」・「武家御用」及び「天下弥静謐」のために信長が来月中旬に「参洛」するので各自上洛し足利義昭に「御礼」を上奏し「馳走」することが大事であり、延引することはないようにと通達。[二条宴乗日記・元亀元年二月十五日条]
2月25日 岐阜を発つ 入京のため岐阜を発つ。
京都 2月30日 上洛 申刻に上洛。
公家衆・奉公衆が近江国堅田・坂本・山中などへ迎えに行った。上下京の地下人は1町につき5人が京都郊外の吉田まで迎えに出た。山科言継、「五辻」を同行し明智光秀の宿所に赴く。[言継卿記]
4月20日 出陣 朝倉義景討伐のため京を発つ。
朝倉義景討伐 近江の和邇に着陣。[信長公記]
岐阜居城 4月21日 海津氏の田中城。[信長公記]
4月22日 若狭松宮氏の熊川城に泊まる。[信長公記]
4月23日 栗屋氏の佐柿城に入る。[信長公記]
4月24日 佐柿城に逗留する。[信長公記]
4月25日 越前の敦賀に軍勢を繰り出し、直ちに天筒山城を陥れ、敵の首千三百七十を討ち取る。
4月26日 金ケ崎城・疋田城も陥れ、すぐさま木ノ芽峠を超え、越前に乱入する態勢を取った。
浅井長政離反 突然浅井長政の離反により、退却する。
4月28日 金ケ崎の退き口 木下秀吉を金ケ崎城に留めて退却する。これが世にいう「金ケ崎の退き口」である。[信長公記]
京都 4月30日 帰京 近江の朽木越えで帰京する。従う者わずか十人ほどであったという。[継茶記]
5月1日 御所の工事視察 在京中の信長は御所の工事を視察した。福富秀勝を以て朝山日乗に同行させ「白瓜」9個を「御作事以下御褒美」として進上したことを申し渡す。[言継卿記]
近江 5月9日 近江国坂本まで下向。[多聞院日記]
5月12日 勢多山岡城(近江・瀬田城)に入城し、六角義賢を捕獲したとの情報に接す。[言継卿記]
5月19日 朝山日乗・村井貞勝らが近江国より上洛した由を知る。織田軍と南近江六角氏との「和与」は不調に終わり、これによりこの日信長は美濃国へ下向したという。[言継卿記]
移動 5月20日 鉄砲狙撃未遂 ここに於いて摂津国・近江国からの「注進」が届き、六角義賢・六角義治らは1昨日か近江国甲賀郡石部城へ2万計りを率いて出陣、信長は「こうづばた」に於いて山中より「銕放」(鉄砲)4丁に狙撃されたが「笠之柄」に当たったということであった。その後、山科言継は一臺・大蔵卿局を訪問しそれぞれに於いて暫く雑談す。[言継卿記]
岐阜居城 5月21日 岐阜帰城 岐阜城に着く。[言継卿記]
浅井長政討伐の準備を整え、木下秀吉に命じて堺の豪商今井宗久ら対して大量の火薬と煙硝の調達を依頼させた。
6月4日 六角承禎・六角義治父子、一揆を率いて近江国笠原へ出撃。織田軍の柴田勝家・佐久間信盛と交戦す。この戦闘は織田軍の勝利となる。[士林証文]
姉川の戦い 6月19日 岐阜出陣 浅井長政討伐のため、岐阜城を出陣する。
近江 6月21日 長政の居城小谷に迫り、城下を焼き払う。ついで、虎御前山に陣取る。
6月24日 徳川家康赴援 援軍徳川家康と共に竜ヶ鼻に移陣する。長政も越前から駆けつけた朝倉景健の援軍と合流すべく小谷城から繰り出してきた。よって、浅井・朝倉連合軍1万5千、織田・徳川連合軍2万8千が姉川を挟んで対峙する格好となった。[信長公記]
6月28日 姉川の戦い 午前十時頃、姉川の戦い始まる。朝倉軍が徳川勢に斬り崩されて後退。浅井軍も総崩れとなり小谷城に敗走する。横山城を陥れ、木下秀吉を置く。[津田文書]
京都 7月4日 入京 申刻に4・5騎、「上下」30人ばかりを率いて上洛。直接足利義昭のもとへ参上。近江国北郡に於ける戦闘について雑談があった。次いで明智光秀の宿所を訪問。[言継卿記]
7月5日 三好三人衆撃破 織田軍、摂津国吹田に於いて三好三人衆の軍勢を撃破。[言継卿記]
7月7日 丑下刻に美濃国岐阜へ下向。[言継卿記]
岐阜 7月10日 毛利元就へ「北国」情勢と浅井長政「反覆」の状況を通知。また出雲国・伯耆国が毛利氏によって「平均」に属したことを祝し、備前国・播磨国への出撃については時期を見合わせ織田側より申し入れる旨を通知。[毛利家文書]
小早川隆景へ「北国」情勢を毛利元就へ通知したこと、出雲国・伯耆国への軍事行動が毛利氏にとって有利に展開していることを祝す。[宗像文書]
毛利元就へ「天下無異儀趣」など全9ヶ条の「覚」を通達。[毛利家文書]
7月21日 織田信忠、林某へ姉川の戦での軍功を賞して太刀を下す。[林文書]
8月17日 三好三人衆と交戦 織田軍(三好義長ら)、摂津国・河内国に於いて三好三人衆の軍勢と交戦。[言継卿記]
河内国での戦闘で、三好義長の軍勢300余が一所に於いて壊滅させられる。[多聞院日記]
8月20日 岐阜出陣 三好三人衆討伐のために岐阜を出陣し、近江の横山城(現在の長浜堀部町)に入る。
近江 8月22日 長光寺城宿泊 長光寺城(現在の近江八幡市長光寺町)に宿泊。
京都 8月23日 三条西洞院本能寺着陣 三条西洞院本能寺へ着陣。大軍勢を率いて上洛。[言継卿記]
8月24日 吉田兼見、磯谷久次を同行させて信長に礼参。陣所は本能寺であった。塙直政が「奏者」の任であり、塙直政へ20疋、菅屋長頼へ20疋を贈る。[兼見卿記]
8月25日 将軍義昭親征 辰刻に摂津国へ向けて三千の軍勢を率いて出陣。[言継卿記]
三好長逸・三好康長・岩成友通が摂津国大坂福島によって勃発した反乱討伐のため出陣。足利義昭軍も出陣。[言継卿記]
摂津・ 河内出陣 9月12日 一向宗門徒が信長の陣所を急襲。
京都 9月20日 浅井・朝倉連合軍三万が南近江の宇佐山城を陥れて城将の織田信治・森可成を討ち取る。
9月21日 大津から逢坂を越えて京都に接近するに至る。[信長公記]
9月23日 信長、子刻に上洛。[言継卿記]
9月24日 朝倉義景と和睦 信長、浅井・朝倉連合軍が比叡山に布陣したため辰下刻に近江国坂本へ出陣。「堂之先」に於いて織田軍と浅井・朝倉連合軍が激突。この戦闘において「越前衆」の前波景当が戦死した。[言継卿記]
志賀の陣 11月21日 弟信興自刀 伊勢長島の一向一揆、尾張の小木江城を陥れる。城主信長の弟彦七信興が自刀。[信長公記]
近江 12月14日 天皇および将軍の調停により、信長と義景が和睦する。信長、永原城に引き揚げる。[信長公記]
12月16日 大雪中に軍を進め、佐和山の麓磯の郷に泊まる。[信長公記]
岐阜 12月17日 岐阜に帰城 岐阜に帰城する。[信長公記]
12月 信長、山城国本能寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。[本能寺文書]
1571 2年 38歳 1月1日 年頭の決意 岐阜城で年頭の抱負として比叡山延暦寺の攻略を第一目標とする決意を明らかにした。[信長公記]
2月25日 砦普請管理 信長、樋口直房・木下秀吉へ近江国佐和山城「おさへ」の砦を解体した資材を預け、近江国小谷城攻囲の砦普請の資材とすること、この旨を佐和山守将の丹羽長秀に通達したので樋口直房・木下秀吉が徹底した管理をするよう命令。[織田文書]
4月11日 武井夕庵・木下秀吉、小早川隆景へ毛利元就・毛利輝元より信長に「条々」が要請されたことを受けて返事を通知。その内容は丹波国・但馬国の「賊船」の件は足利義昭に上申し、信長が馳走したこと、出雲国・伯耆国の件は安芸毛利氏に委任すること、畿内及び「信長分国」は「静謐」であることであった。[小早川家文書]
5月12日 伊勢長島攻め 尾張津島へ着陣する。
尾張津島 5月16日 氏家ト全没 長島の願証寺を攻撃するが戦況が進展しないまま信長軍は退却したところを一揆勢に弓・鉄砲で追撃され、柴田勝家は負傷し、氏家ト全ら多くの戦死者を出して作戦は惨敗に終わる。[信長公記]
岐阜 8月18日 岐阜出陣 近江国北郡横山へ出陣。[言継卿記]
比叡山延暦寺 8月26日 小谷と山本山の間の中島に移陣して余呉・木之本を放火する。[信長公記]
岐阜 8月27日 横山城(長浜)に帰る。[信長公記]
8月28日 佐和山着陣 佐和山城(彦根)に着陣し、一向一揆の立て籠もる志村城(神崎/東近江)を陥落させる。[信長公記]
9月3日 常楽寺逗留 常楽寺に逗留して一揆の拠点金森城(守山)を陥れる。[信長公記]
南近江一向一揆帰討 南近江の一向一揆を帰討し、坂本への通路を確保した信長は、比叡山延暦寺の攻略に取りかかる。
9月12日 比叡山焼き討ち 諸将に比叡山の焼き討ちを命じて坂本より攻め上らせ、根本中堂をはじめ山王二十一社などを悉く焼き払い、僧侶三、四千人これは、昨年延暦寺の衆徒が浅井・朝倉連合軍を擁護したことに対する見せしめの焼き討ちであった。[信長公記]
新井白石評価 御年新井白石は、その行動は残忍この上ないが、長く僧徒の凶悪を除いた功績は大きいと批評している。
京都 9月13日 入京 信長、入京し妙覚寺へ宿泊。信長、「叡山」周辺の焼け残った箇所へ悉く放火す。信長は「小姓衆」・「馬廻」ばかりを従え上洛、足利義昭へ参り「小飯」をとる。[言継卿記]
9月17日 毛利元就死去 小早川隆景へ毛利元就の逝去を悼み、毛利輝元へ弔問の使僧を派遣した旨、篠原長房を撃退したことへの祝意、「五幾内」は別条の無いことを通知。[小早川家文書]
9月18日 京を発ち近江の永原(野洲)に泊まる。竹内季治を近江国永原に於いて「生害」させる。[言継卿記]
岐阜 9月20日 岐阜に帰城 岐阜に帰城する。[信長公記]
9月24日 明智光秀、早旦に摂津国高槻へ1千ばかりの軍勢を率いて出陣。[言継卿記]
10月14日 幕臣の細川藤孝へ丹波国勝龍寺城は要害であるため、桂川西岸の家屋の門毎に1人の人夫を3日間徴用し普請をするよう命令。[米田氏所蔵文書]
10月26日 織田軍先発隊、上洛す。[多聞院日記]
12月14日 尾張にて放鷹 美濃国岐阜より尾張国へ鷹狩に出発。坂井利貞供す。[言継卿記]
12月28日 岐阜に帰城 岐阜に帰城する。[言継卿記]
1572 3年 39歳 正月 三子元服 年末年始を本国で過ごした信長は、正月に岐阜城で、三兄弟を元服させた。奇妙丸(16歳)は勘九郎信重のち織田信忠。茶筅丸(15歳)は三介具豊のち織田信雄。三七丸(15歳)は三七信孝と名乗らせた。
1月23日 三宅城に於いて抗戦させていることに対し、信長からの「一味内通」を禁止する旨を通達し連署起請文の提出を佐久間信盛、近江国高野荘の一向宗坊主・地侍長らへ六角義賢・六角義治父子が一向宗徒を勧誘し近江国金森城命令。[福正寺文書]
近江 3月5日 岐阜出陣 江北方面に出馬し近江国赤坂に布陣。[信長公記]
3月6日 近江国横山に着陣。[信長公記]
3月7日 近江国小谷城と山本山の間の与語・木本に放火す。[信長公記]
3月9日 近江国横山城に軍勢を入れる。[信長公記]
3月10日 近江国常楽寺へ宿泊す。[信長公記]
3月11日 近江国志賀郡へ出陣。次いで和邇に移陣し、木戸砦・田中砦を攻略し、明智光秀・中川重政・丹羽長秀に守備させる。[信長公記]
京都 3月12日 妙覚寺着陣 近江国より上洛。京都二条妙覚寺に寄宿す。[信長公記]
軍勢700名程を率いて上洛、妙覚寺へ寄宿。[兼見卿記]
3月中旬 京都屋敷造営 足利義昭、信長公の京都「御座所」が無しというのは如何として、上京武者小路の空地の坊跡(徳大寺公維邸地)に屋敷を構えるように指示、足利義昭の命令で「畿内の面々」による普請着手を決定。[信長公記]
3月21日 徳大寺公維の屋敷を収め、居館建造を意図。足利義昭の命令の形で大覚寺尊信・久我通堅・高倉永相・北野社・吉田兼見ら諸家にも、普請夫役を賦課。[兼見卿記]
4月16日 佐久間信盛・柴田勝家・明智光秀・細川藤孝・三淵藤英・上野秀政・池田勝正・伊丹親興・和田惟長ら2万余の軍勢、河州表へ出陣。松永久秀の軍勢を河内国河内郡騎西城を攻囲。[兼見卿記]
5月5日 織田軍先発隊、大和国西京に着陣。また筒井順慶より大和国興福寺へ種々の通達があった。
5月7日 織田軍数万人が大和国西京表に布陣。[多聞院日記]
5月8日 織田軍が大和国奈良へ「打入」する以前に、奈良中より銀子320枚、興福寺より銀子100枚、東大寺より銀子50枚が上納され、多聞院英俊は「先以安堵了」という感慨を記す。[多聞院日記]
5月9日 信長大包囲網 織田軍、大和国「大黒カ尾」から多聞山城の北側まで包囲。午刻に松永久秀の多聞山城に攻撃を仕掛ける。[多聞院日記]
5月14日 京を発し下向する。
岐阜 5月19日 岐阜に帰城 「天下の儀」を仰せ付けて美濃国岐阜へ帰城。[信長公記]
6月27日 江北出撃 近江国沖島惣中へ織田信長の江北出撃に際し「早船」を以て敵地を放火すること、また「早船」3艘を調達し沖島惣中指導者自身が乗船して林与二左衛門尉と堅田衆に相談し作戦を遂行することを命令。詳細は中川重政に伝達させる。[島村沖島共有文書]
7月19日 信忠初陣 嫡男の織田信忠を同伴し美濃国岐阜城を出陣し江北表へ向かう。これは織田信忠の「具足初」であった。[信長公記]
信長・織田信忠、近江国赤坂に着陣。[信長公記]
浅井長政攻め 7月20日 信長・織田信忠、近江国横山城に入城。[信長公記]
岐阜 7月21日 信長・織田信忠、近江国小谷城を攻囲。「ひばり山」・虎御前山に軍勢を上げて、佐久間信盛・柴田勝家・木下秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆に城下を蹂躙させる。[信長公記]
柴田勝家・稲葉一鉄・氏家氏元・伊賀伊賀守ら、織田軍先手隊として近江国小谷城下に布陣。
[信長公記]
7月22日 木下秀吉、信長より近江国山本山城の阿閉貞征の攻撃命令を受けて山麓に放火。これに対し近江国山本山城より足軽100騎余が出撃、木下秀吉がこれを撃破し敵首50余を討ち取る。信長、この戦功に対し「御褒美斜めならず」と喜ぶ[信長公記]
7月23日 信長、近江国・越前国境の与語・木本地蔵坊中など「堂塔伽藍名所旧跡一宇」を残らず焼き払う。
[信長公記]
7月24日 木下秀吉・丹羽長秀、織田信長の命令を受けて共に近江国草野谷に放火、大吉寺に於いて敵勢「一揆僧俗」を殲滅す。[信長公記]
林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡玉林・馬場孫次郎・居初又二郎、織田信長の命令を受けて「囲舟」を建造し、近江国海津浦・塩津浦・与語入海・江北の敵地を焼き払い、竹生島に停泊し「火屋」・「大筒」・「鉄炮」を以て一揆勢を殲滅。[信長公記]
7月26日 山内元通、吉川元長へ「御兄弟御契約」の締結を謝す。[山内首藤家文書]
7月27日 朝倉義景出兵 近江国虎御前山の「御取出」を「御要害」とする普請命令を下す。[信長公記]
朝倉義景が1万5千の軍勢を率いて近江国小谷城救援のため出馬した情報に接す。[信長公記]
7月29日 朝倉義景、浅井長政を救援するため1万5千余の軍勢を率い近江国小谷に到来、「高山」に布陣。
[信長公記]
8月8日 前波長俊投降 陣中に於いて越前国の前波九郎兵衛父子を謁見し、「御祝着斜めならず」とて帷子・小袖・馬皆具を下賜。[信長公記]
8月9日 富田弥六・戸田与次・毛屋猪介らを謁見す。[信長公記]
9月15日 近江国虎御前山城に羽柴秀吉を「定番」として配備させる。[信長公記]
9月16日 岐阜に帰城 信長・信忠、近江国横山城より美濃国岐阜城へ帰城する。[信長公記]
9月 義昭を諌める 信長、足利義昭へ全17ヶ条の異見「条々」を提出。[尋憲記]
11月3日 羽柴秀吉、近江国虎御前山城に攻撃を仕掛けてきた浅井七郎を先鋒とする浅井・朝倉連合軍を撃退。
11月14日 岩村落城 武田信玄、岩村城を攻略。[鷲見栄造氏所蔵文書]
11月19日 武田信玄が遠江国二俣城を攻囲したことを知る。[信長公記]
12月3日 朝倉義景、近江国より撤退。
12月22日 三方ヶ原の戦い 遠江国三方ヶ原に於いて武田信玄と織田・徳川家康連合軍が激突し惨敗する。[信長公記]