| 西暦 |
年号 |
年 |
信長年齢 |
信長所在地 |
事績/日 |
事 項 |
| 1558 |
永禄 |
元年 |
25歳 |
清洲居城 |
1月27日 |
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加藤資景へ商売に関しては以前与えた判形通り、織田信行誘殺に関する戦乱にあたりは代々免許加藤資景分の知行の通りに安堵。[加藤秀一氏所蔵文書]・[張州雑誌抄] |
| 3月7日 |
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今川義元の部将松平家次の守る尾張品野城を攻めるが敗北する。[家忠日記増補] |
| 5月 |
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岩倉城主織田伊勢守信安、子の信賢に追放される。ついで信賢、美濃の斎藤義龍と結び信長に反旗をひるがえす。 |
| 7月12日 |
浮野の戦い |
岩倉城主織田信賢を攻めて、犬山城主の織田信清とともに浮野で戦って撃破する。[信長公記] |
| 9月15日 |
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尾張国恒川氏へ津島辺内の興雲寺領10貫文、堀之内公文名20貫文、合計3000疋を扶助。[生駒家宝簡集] |
| 9月17日 |
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前野長康へ野々村大膳分20貫文、高田中務丞分20貫文、合計40貫文を扶助。[大森洪太氏保管文書] |
| 11月2日 |
弟信勝再度背く |
弟の信勝、岩倉城主織田信賢と結び再度信長に背く。[信長公記] |
| 12月 |
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尾張国白坂雲興寺へ全5ヶ条の禁制を下す。[雲興寺文書] |
| 1559 |
2年 |
26歳 |
京都 |
2月2日 |
初上洛 |
尾張国より500の軍勢を率いて上洛。山科言継、これについて「異形者多」という風聞に接す。[言継卿記] |
| 2月7日 |
帰国 |
昼に京都より尾張国へ帰国するため出立。[言継卿記] |
|
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在京中に美濃の斎藤義龍が討手を送り信長の狙撃を図るが未遂に終わる。 |
| 清洲居城 |
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岩倉落城 |
岩倉城を攻めて、城下に放火して裸城とし、四方に鹿垣を設けて鉄砲・火矢で攻撃。 |
|
|
2、3ヶ月の籠城のすえ城主織田信賢は城を明け渡して降伏する。のちに城は破却された。 [甫庵信長記・織田信長譜] |
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信長の尾張統一がほぼ実現された。 |
| 1560 |
3年 |
27歳 |
5月5日 |
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三河の吉良方面に出陣して所々に放火して廻る。[岡崎古記] |
| 5月16日 |
今川義元出陣 |
今川義元、兵一万を率いて駿河から三河の岡崎に着城。 |
| 5月18日 |
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尾張沓掛に侵入。 |
| 5月19日 |
義元討死 |
今川義元、桶狭間に陣取る。 |
| 桶狭間の戦い |
清洲城を発ち、昼過ぎに今川義元を討つ。[信長公記] |
| 5月20日 |
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清洲城にて義元以下の首実検を行う。その数三千余という。 |
| 6月2日 |
美濃侵入 |
美濃に侵入して、斎藤義龍と戦う。8月に再び侵入するという。[総見記] |
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生駒家長へ馬1疋分の関税を免除。〔「生駒鍾氏所蔵文書」〕 |
| 1561 |
4年 |
28歳 |
春 |
松平元康と和睦 |
国境を定める。 |
| 5月11日 |
斎藤義龍没 |
病死。[日本史人物生没年表] 美濃侵攻戦を本格的に着手する。 |
| 5月13日 |
美濃森部の戦い |
斉藤龍興(義龍の子)の兵と森部で数刻に渡り戦い、撃破する。ついで滝の墨俣砦を奪い在陣する。[信長公記] |
| 5月23日 |
軽海の戦い |
ふたたび龍興の兵と軽海において戦い、翌24日朝、墨俣に戻る。ついで清洲に帰城。[信長公記] |
| 6月 |
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美濃国平野神戸市場へ全3ヶ条の「禁制」を下す。[高橋宗太郎氏所蔵文書] |
| 1562 |
5年 |
29歳 |
1月15日 |
松平元康と会見 |
正式に同盟を結ぶ。[清洲同盟] これより20年間の和平同盟が続く。 |
| 2月 |
|
水野太郎左衛門へ従来通り尾張国内に於いて「鐘」・「塔九輪」・「鰐口」鋳造の特権を承認し、 |
|
熱田の「鉄屋」が鞴を立てることを禁ず。更に他国人が尾張国内で「鍋」・「釜」を移入することを禁止し、 |
|
水野範直に専売権を承認、諸役・門次の所質などを免除。[水野太郎左衛門氏所蔵文書] |
| 3月17日 |
|
尾張国熱田座主御坊へ「六拾六部」(六十六部廻国衆)の尾張国内通過を承認。[密蔵院文書] |
| 3月22日 |
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尾張国正眼寺へ寺領を安堵。[東洋文庫所蔵・尾張国寺社領文書] |
| 7月21日 |
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尾張国阿弥陀寺へ従来の如く門家及び末寺の支配を委ねる。[阿弥陀寺文書] |
| 1563 |
6年 |
30歳 |
小牧山居城 |
2月 |
小牧山築城 |
美濃斎藤氏と、これと結ぶ犬山城の織田信清を攻略するために小牧山に築城し、家臣に移住を命ずる。 [信長公記] |
| 3月2日 |
娘五徳婚約 |
信長の娘五徳と、松平元康の嫡子竹千代(信康)の婚約が成立する。[徳川家譜] |
| 春 |
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斉藤龍興を美濃稲葉山に攻めて敗北する。[総見記] |
| 4月17日 |
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斎藤龍興との戦闘にあたり尾張国妙興寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す。[妙興寺文書] |
| 6月17日 |
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毛利広盛へ合戦で討死にした親(毛利広雅)の忠節を讃える。[毛利ヨ七郎氏所蔵文書] |
| 10月 |
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美濃国稲葉山井口城攻撃に際し尾張国曼陀羅寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。[曼陀羅寺文書] |
| 11月 |
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美濃斎藤氏との戦闘中に織田側に内応する者が出たため長田弥右衛門尉へ「当知行」を安堵。 [小川文書] |
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加藤全朔・加藤資景へ美濃斎藤氏との戦闘中で内応者には欠所処分・財産没収とするが、 |
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織田家と密接な加藤家には特権を承認。[加藤秀一氏所蔵文書] |
| 12月 |
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池田恒興へ「扶助」分・「持分」・「家来者買得持分」を安堵。[備前池田文書] |
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尾張国瀬戸へ「瀬戸物の売買を保護する全3ヶ条の「制札」を下す。[加藤新右衛門氏所蔵文書] |
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尾張国亀井山円福寺の熱田亀井覚阿弥へ「買得田畠・屋敷」以下を末代まで安堵、「引得」分のうちで弟子に |
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譲った分については「新儀諸役」・「理不尽使」を入れないことを安堵。[張州雑志抄] |
| 1564 |
7年 |
31歳 |
2月 |
美濃内乱 |
美濃では、竹中半兵衛重虎と安藤守就によって稲葉山城が占領される。のちに斎藤龍興に奪回された。美濃から |
| 作戦の転換 |
美濃国内の内乱に乗じて西美濃から東美濃へ攻略作戦を切替し、居城を清洲より北東に位置し、美濃に近い小牧山に移した。 |
| 8月 |
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美濃鵜沼城、猿啄城を落城させる。[信長公記] |
| 9月9日 |
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直江景綱へ「其後絶音問」は本意ではなかったこと、去8月に美濃国へ出動し井口城に迫り、その近所に砦を、犬山・金山などその他数ヶ所は「降参」したので「宥免」したこと、更に伊勢国まで出撃したことなど「直書」を以て上杉輝虎に通知したので省略することを通達。なお佐々長穐(「佐々」)に連絡させる旨を通知。[歴代古案] |
|
上杉輝虎と音信子息 の養子一件 |
直江景綱へ織田信長からの使者派遣に触れ、上杉輝虎に懇願した件が受諾され、更に「おほ鷹」5連を贈られたことを謝し、上杉輝虎へその旨の「取成」を依頼。[上杉家文書] |
| 1565 |
8年 |
32歳 |
7月10日 |
佐藤紀伊守内応 |
西美濃方面で内応に応じた佐藤右近衛門尉へ以前に「誓紙」で申したように三郡の件で「反銭」・「夫銭」共に全て押さえることを許可。[備藩国臣古証文] |
| 7月28日 |
美濃堂洞城攻略 |
美濃出陣。長井道利の攻撃を排除し、堂洞城を包囲する。尾張凱旋途中、斎藤龍興、長井道利らの三千の兵を撃破する。[信長公記] |
| 9月9日 |
武田信玄と同盟 |
津田掃部助一安を甲斐の武田信玄に遣わし、養女と信玄の子勝頼との縁組を申し入れる。 |
| 11月1日 |
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佐藤紀伊守らを援助し関城を攻略した美濃国の斎藤新五郎へ「新知」の宛行状を下す。[備藩国臣古証文] |
| 11月3日 |
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坪内惣兵衛・坪内勝定・坪内利定の3名へ戦功を賞して美濃国内に都合687貫文を宛行う。[坪内文書] |
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坪内惣兵衛・坪内勝定・坪内利定の3名へ戦功を賞して都合300貫文を「扶助」す。[坪内文書] |
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木下秀吉、坪内利定宛で織田信長知行宛行状の副状を発給。[坪内文書] |
| 12月5日 |
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細川藤孝へ足利義秋(義昭)「御入洛」の件を重ねて「御内書」により通達されたものを拝閲したこと、度々了承したとおり「上意次第」即時「御供奉」する意思を表明。さらに朝倉義景・武田義統へも早速出兵命令下すよう督促。使者の大草公広・和田惟政(「和田伊賀守」)より申し上げるため「御取成」を依頼。 [高橋義彦氏所蔵文書] |
| 2月 |
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尾張国の薬師寺別当蔵南坊へ尾張国海東郡間島村内の100貫を寄進。 [東洋文庫所蔵・尾張国寺社領文書] |
| 1566 |
9年 |
33歳 |
3月 |
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足利義秋(義昭)信長と美濃の斎藤龍興に和平を勧告する。両者和睦。[中島文書・上杉家記] |
| 4月11日 |
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朝廷に馬・太刀の代として銭3千疋(三十貫文)を献上。[御湯殿上日記] |
| 7月 |
矢島参陣を断念 |
近江の矢島に参陣し、足利義秋(義昭)を奉戴して上洛することを約すが、三好三人衆の妨害工作により断念。日比野孫一へ「持分」である門真の雉墳方の田畠は「公方諸役」(織田家徴収の諸役)及び「欠所」地を調査する以外に「徳分」(得分:年貢)などは永久に給与する旨を通達。また野・林・池・堀などの「裁許」を許可。次に貸し付けた米銭については、たとえ西方郷だけの「徳政」を命令しても日比野孫一分は特別扱いとし、一切の国役を免許。[東洋文庫所蔵・尾張国寺社領文書] |
| 11月 |
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兼松正吉へ「扶助」として兼松弥四郎の「名田」及び「ゥ買徳」地を例え「誰々如何様之雖帯判形」も「欠所」として給与する旨を通達。[兼松文書]
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服部小藤太へ「新儀諸役」及び「理不尽之使」の立入禁止と「雇夫」ならびに「大蔵棟別外棟別」を免許。[張州雑志抄] |
| 1567 |
10年 |
34歳 |
春 |
北伊勢攻略 |
滝川一益に命じて伊勢北境の諸城を攻略させる。[勢州四家記] |
| 5月27日 |
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娘五徳、徳川家康の嫡男信康に嫁ぐ。[神君御年譜] |
| 岐阜居城 |
8月15日 |
稲葉山城落城 |
美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の内応により美濃国稲葉山の井口城を奪取。「岐阜」と改名。 |
| 岐阜改称 |
斎藤龍興、稲葉山井口城を脱し長良川を経由して伊勢国長島へ退去。 |
| 8月16日 |
|
三好三人衆、軍事行動を起こす。これにより松浦某・松山某が200計の軍勢を率い裏切り、「十八間癩人ノ宅」(北山十八間戸か)を焼き払う。[多聞院日記] |
| 天下布武 |
岐阜移城の直後から沢彦宗恩の選定した印文『天下布武』の朱印を使用は岐阜を拠点に全国制覇をめざす。 |
| 10月 |
楽市場 |
岐阜城下に楽市場の制札を上げ、諸役などを免除する。[円徳寺文書] |
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美濃国楽市場へ全3ヶ条の定(楽市令)を下す。[圓徳寺文書] |
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美濃国美江寺へ全3ヶ条の禁制を下す。[美江寺文書] |
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美濃国武芸八幡神社衆僧中へ寺社領を安堵。[八幡神社文書] |
| 11月9日 |
古今無双の名将 |
正親町天皇、織田信長へ綸旨を下す。その内容は「国々属本意」(美濃国統一)したことは「尤武勇之長」である上に、「天道之感応」であり、「古今無双之名将」であるため、「弥可被乗勝」ことは勿論であるが、特に尾張・美濃両国の「御料所」「御目録」提出を厳重に命令するというのが「綸命」であるというものであった。[立入宗継文書] |
| 11月 |
多くの禁制 |
美濃国北方圓鏡寺へ寺法度は先規の如く、新儀諸役の宥免を安堵。[圓徳寺文書] |
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高木貞久へ知行を安堵。[東高木文書] |
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摂津国多芸の丸毛不心斎へ全3ヶ条の禁制を下す。[吉田亀之助所蔵文書] |
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坂井利貞へ美濃国旦嶋内に20貫文を知行として安堵。(信長「朱印状」の初見)[坂井遺芳] |
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矢野弥右衛門尉(美濃国地侍)へ美濃国河野内に20貫文を知行として安堵。[尊経閣文庫所蔵文書] |
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兼松正吉へ美濃国河野内に10貫文を知行として安堵。[兼松文書] |
| 12月1日 |
|
大和国興福寺衆徒へ足利義昭「入洛」に近日「供奉」する予定、足利義昭への忠誠、大和国多聞城の松永久秀・松永久通父子との「入魂」、松永久秀父子を「見放」ないことは「誓紙」を交換したので必ず加勢するであろうことを通知。以上の件は和田惟政に、詳細は佐久間信盛に通達させる。[柳生文書] |
| 12月 |
|
美濃国阿願寺へ寺領を安堵。[阿願寺文書] |
| 浅井長政と同盟 |
浅井長政にお市を嫁がす。[総見記] |
| 1568 |
11年 |
35歳 |
2月 |
北伊勢攻略 |
上洛の背後固めとして、北伊勢を攻略する。 |
| 信孝神戸氏養子 |
三男信孝を神戸友盛の嗣子に。 |
| 信包長野氏を継承 |
弟の信包を長野氏の名跡を継がせるべく送り込み、津田掃部助一安を安濃津城の守将とした。[北畠物語] |
| 4月27日 |
近江の武将を懐柔 |
佐治為次へ近江国蒲生郡内に知行を安堵す。[佐治家乗] |
|
永原重康へ全3ヶ条の条書を下す。[護国寺文書] |
| 7月16日 |
義秋から義昭に改名 |
足利義昭、近江国小谷城に於いて浅井長政の饗応を受ける。[多聞院日記] |
| 7月25日 |
義昭を岐阜に迎える |
足利義昭、美濃国岐阜立政寺に迎え、義昭上洛の供奉を承諾し移る。[多聞院日記] [信長公記] |
| 7月29日 |
|
上杉輝虎へ織田・武田間の件は足利義昭の「御入洛」に供奉するため「一和」が成立したこと、武田信玄・徳川家康間は相互に侵略しない「契約」が成立し動くことができないこと、「越甲間」が「無事」に属して相互に遺恨を忘れて「天下之儀」を馳走するよう依頼する。また越中国での一揆蜂起と上杉方の神保父子が「鉾楯」の様子を尋ね、神保父子のことは信長も「無疎略」であるため心配していること、さらに「唐糸」・「豹皮」を贈呈する旨を通知。[志賀槙太郎氏所蔵文書] |
| 8月2日 |
|
近江甲賀の土豪に対して、近江進発する予定日を告げ忠節を要請する。 |
| 上洛作戦 |
9月7日 |
岐阜を出陣 |
足利義昭にあいさつをして三万余の大軍を率いて岐阜を発した。その夜、平尾村(坂田郡伊吹町弥高小字平尾)に着陣して、合戦の手はずを定める。 |
| 岐阜居城 |
9月8日 |
|
犬上郡高宮に着した。 |
| 9月11日 |
|
愛知川の近辺まで進み、野陣を敷いた。 |
六角承禎への勧告 六角承禎を説得 |
観音寺城へは、先約した通り近江通過上洛することを異議なく了承、協力することに相違ないかの再確認をした。箕作城へは、新公方義昭の使者、和田伊賀守維政に信長の軍使を添えて差し遺わし、「このたび新公方家ご入洛につきにつき、そこもと承禎父子を深く頼みたいとおぼし召されるところである。よって直ちに人質を差し出して味方に参り、先陣を相勤められたい」三度足を運ばせて、繰り返しいんぎんを尽くして承禎に勧告せしめた。しかし、使者承禎は豪語してを追い返した。 |
| 9月12日 |
六角承禎氏敗北 |
早朝箕作城下を巡検。攻め口を調べるためだった。 |
|
信長の武将、美濃三人衆、稲葉伊予守、氏家常陸介入道、安東伊賀守の同勢が和田山城に攻める。 |
|
観音寺城主佐々木義秀は後詰で織田軍に協力する。観音寺城方佐々木の旗頭、沢田武蔵野守、楢崎太郎左衛 |
|
門尉、伊達出羽守、朽木宮内大輔、青地伊予守、京極兵部太輔、三上伊予守らが加わった。 |
|
箕作城の寄せ手の先陣は佐久間右衛門尉信盛、木下藤吉郎秀吉、浅井新八等の軍勢。後詰は信長の本隊。 |
|
観音寺城主佐々木義秀の恩命により、降伏した吉田出雲守、建部源八郎は助名。信長も許す。 |
|
箕作城の承禎父子は降伏を申し入れる。 |
|
夕刻、信長は観音寺城に入城し宿営する。 |
| 9月13日 |
義秀氏と対面 |
観音寺城主佐々木義秀と対面し、城主佐々木義秀以下佐々木一統の強力加勢を求めた。 |
| 9月14日 |
|
家臣の不破河内守を足利義昭の迎えとして美濃西庄、立正寺に遺わした。 |
| 9月22日 |
義昭桑實寺宿泊 |
足利義昭が観音寺城に来着した。信長は、これを城内桑實寺に入れ、暫時この寺に宿泊待機させることとした。 |
| 9月24日 |
全軍守山へ |
観音寺城を発し、全軍守山まで進んだ。 |
| 9月25日 |
|
琵琶湖湖畔に船を集める。 |
| 9月26日 |
洛中洛外騒動 |
湖上を船で渡り、大津の三井寺極楽院に本陣を構えた。 |
|
織田軍、早旦に山科郷より南方へ出張。北白川よりも同様に別働隊が進軍する。 |
|
細川藤孝・明院良政が山科言継邸北門まで到来し、この日足利義昭が清水寺に布陣、信長は東寺に布陣した |
|
由を通知。山科郷粟田口西院の方々で放火があり、久我に於いて合戦があったという。 |
|
織田軍、岩成友通を山城国勝龍寺城に於いて攻撃すという。[言継卿記』] |
| 京都 |
|
洛中法制を制定。[続史愚抄] |
| 岐阜居城 |
9月27日 |
|
足利義昭も供を従えて三井寺極楽院に陣宿した。 |
|
織田軍の江北郡衆・高島衆8000許りが神楽岡に布陣。後に南方へ移動。[言継卿記] |
|
織田軍、西岡・吉祥院・淀・鳥羽・河州・楠葉などを放火。[言継卿記] |
|
織田軍、山崎天神馬場に布陣。[言継卿記] |
|
三好三人衆を西岡勝龍寺城を攻撃。[言継卿記] |
| 9月28日 |
義昭を奉じて上洛 |
東福寺へ布陣。京都町衆の参集を受ける。[当代記] |
| 9月28日 |
|
大挙全軍勢が入京して、難なく京洛を制圧し、義昭の将軍奉戴に成功した。 |
| 摂津・河内出陣 |
9月29日 |
畿内を支配下に置く |
織田軍、山城国勝龍寺城・摂津国芥川城を攻略。[言継卿記] |
| 岐阜居城 |
9月30日 |
|
足利義昭、摂津国芥川へ進軍。織田軍、この日は郡山道場と富田寺を破壊。[言継卿記] |
| 10月9日 |
|
御室御門跡雑掌の成多喜御房へ足利義昭「御下知」に任せて仁和寺門跡領・境内を安堵す。[仁和寺文書] |
| 10月10日 |
|
織田軍、三好三人衆軍より大和国森屋城を奪取。[多聞院日記] |
| 京都 |
10月14日 |
帰京 |
河内から京都に帰り、清水寺に陣す。[言継卿記] |
| 岐阜居城 |
10月18日 |
|
足利義昭、征夷大将軍に就任。[公卿補任] |
| 10月26日 |
|
京都を発って岐阜に帰還。[多聞院日記] |
|
木下秀吉、佐久間信盛・丹羽長秀・村井貞勝ら五千人の軍勢と共に京都に駐在。[多聞院日記] |
| 10月28日 |
岐阜に帰城 |
岐阜に帰城する。[信長公記] |
| 1569 |
12年 |
36歳 |
1月5日 |
将軍襲撃 |
三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、足利義昭の宿所である本圀寺を攻撃。足利義昭足軽衆20余人が討死、三好三人衆の軍勢では死人・負傷者が多数であった。[言継卿記] |
| 1月6日 |
三好三人衆軍を撃破 |
京都桂川に於いて池田勝正軍が三好三人衆軍に敗北したところに三好義継が到来し、三好三人衆軍を撃破。[多聞院日記] |
| 京都 |
1月10日 |
入京 |
松永久秀を同行し美濃国より上洛。兵8万が駆けつけた。[言継卿記] [信長公記] |
| 岐阜居城 |
1月14日 |
|
全9ヶ条の「殿中御掟」を発す。[仁和寺文書]、[毛利家文書]、[蜷川家文書] |
| 1月16日 |
|
全7ヶ条の殿中御掟「追加」を発す。[仁和寺文書] |
| 1月19日 |
禁中で三義長 |
信長も近習五百人ばかりを従えて見物した。[言継卿記] |
| 2月2日 |
将軍御所造営 |
勘解由小路室町真如堂に元の如く「武家御城」を近日中に普請を実施するという。尾張国・美濃国・伊勢国・近江国・伊賀国・若狭国・山城国・丹波国・摂津国・河内国・大和国・和泉国・播磨国より人夫が石を運び召集され、この日より「石蔵積」が開始される。[言継卿記] |
| 3月1日 |
|
摂津国四天王寺へ撰銭に関する全7ヶ条の「定精選条々」を下す。[四天王寺文書] |
| 3月2日 |
副将軍職要請 |
禁裏、信長へ万里小路惟房・広橋兼勝を勅使として派遣され、「副将軍」推任が通達される。信長、この推任に返答せず。[言継卿記] |
| 4月10日 |
|
山城国北野社松梅院へ社領丹波国船井郡の「地頭職」11ヶ村を将軍家「御代々之御判」・足利義昭「御下知」に任せて安堵す。[北野天満宮史料] |
| 4月13日 |
|
山城国西岡の灰方公文へ広橋国子が徴集している西岡灰方からの「夫銭」は月毎に納入するはずであるが理由を付けて「難渋」していることは「曲事」であるとし、「如前々」く進納するよう命令。[曇華院文書] |
|
この晩に妙覚寺へ移徙す。足利義昭は明日新築の幕府御所へ移徙の予定という。[言継卿記] |
| 4月21日 |
帰国 |
帰国の挨拶のため義昭に謁える。 |
|
二重政権 |
上洛以後の政権は幕府と信長の二重政権であった。 |
| 7月27日 |
信長本妻 |
山科言継、信長が斎藤義龍後家所持の壺を所望していたが紛失してしまい、更なる探査に及べば斎藤義龍後家は自害するといい、斎藤義龍後家が自害するならば信長本妻及びその一類は悉く自殺するというので事態は収拾したことを知る。[言継卿記] |
| 伊勢北畠氏攻略 |
8月20日 |
伊勢木造具政内応 |
8万余騎の軍勢を率いて伊勢国へ侵攻。[多聞院日記] |
| 岐阜居城 |
8月21日 |
白子観音寺に移陣 |
鷹狩りののちに白子観音寺に移陣。 |
| 8月23日 |
|
木造に着陣。 |
| 8月26日 |
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木下秀吉が阿坂城を陥れる。 |
| 8月28日 |
大河内城包囲 |
北畠具房を大河内城に包囲する。 |
| 10月3日 |
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伊勢北畠城、陥落す。 |
| 10月5日 |
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伊勢山田に着陣。 |
| 10月6日 |
伊勢神宮参拝 |
伊勢神宮に参拝。 |
| 10月7日 |
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木造まで戻る。 |
| 10月8日 |
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上野に着陣し、兵を諸国に帰す。 |
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伊勢の仕置き |
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茶筅丸の後見役に津田一安。滝川一益に安濃津・渋見・木造。織田信包に上野の諸城を守らせる。 |
| 10月9日 |
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大雪の中千草峠を越える。 |
| 10月10日 |
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近江の市原に宿泊する。[信長公記] |
| 京都 |
10月11日 |
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足利義昭に対する伊勢平定報告のために上洛。[信長公記] |
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軍勢3万騎を率い出京す。[多聞院日記] |
| 10月15日 |
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足利義昭の命令により伊勢因幡入道(伊勢貞知)の領地である丹波国桐野河内村半分・保津保半分・保津保毘沙門村集慶分半分・水尾村半分、摂津国溝杭村地頭名半分を安堵。[伊勢文書] |
| 10月16日 |
義昭と信長衝突 |
足利義昭と「セリアヰ」美濃国岐阜に下国す。[多聞院日記] |
| 岐阜居城 |
11月6日 |
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津田一安へ3510石の領中方目録を下す。[土佐国蠧簡集残編] |