TOP | 信長年譜  弘治時代
西暦 年号 信長年齢 信長所在地 事績/日 事      項
1555 弘治 元年 22歳 清洲居城 2月5日 鳴海城将の山口左馬助に同心した星崎・根上の者の所領を没収する。[徳川黎明会所蔵文書]
5月8日 織田孫光三郎の後室「おはた殿」に所領を与える。[堺市博物館所蔵文書]
7月6日 弟喜六郎秀孝没 叔父孫十郎信次の家臣某、信長の弟喜六郎秀孝を謝って射殺する。信次は出奔する。
相次ぐ一族の死 守山城を弟の安房守秀俊に与える。[信長公記]
尾張国熱田神宮座主坊(天台宗如法院)へ直務する社領秋武町の畠・屋敷を安堵。座主持分の神領に関しては違乱者を必ず申し付けるように、更に熱田神宮周辺は座主坊政所の管轄であるので先例通りに処置すべきを命令。[熱田神宮文書]
10月1日 花井三河守政勝に二百七十八貫文の知行を与える。[酒井文書]
1556 2年 23歳 3月 三河野寺原の戦い 三河の荒河に侵入した信長は、野寺原で今川氏の軍勢と戦う。[観泉寺所蔵文書]
4月上旬 尾張守護の斯波義銀と三河守護の吉良義昭、三河の上野原で会見する。信長、義銀に随行する。
[信長公記]
4月19日 道三遺言状 舅の斎藤道三、末子に遺言状を与え美濃国ほ信長に譲る旨を告げる。[岡本はる氏所蔵文書]
4月20日 道三敗死 道三、子の義龍と長良川で戦い敗死する。[信長公記]
5月26日 信長暗殺未遂 弟の安房守秀俊と那古野に赴く。城将林秀貞の弟美作守、信長の暗殺を企てるが未遂に終わる。
[信長公記]
6月 弟秀俊殺害 守山城主の弟安房守秀俊、家臣の角田新五郎に殺害される。遂電中の叔父孫十郎を赦免して守山城を与える。[信長公記]
8月22日 稲生の戦い 尾張国稲生の村はずれに於いて柴田勝家・林美作守らと衝突、信長軍が勝利する。[信長公記]
8月25日 生母の嘆願 生母土田氏の嘆願により、弟の信勝、柴田勝家・林美作守らを赦免する。[信長公記]
舎兄信広違背 舎兄の三郎五郎信広、美濃の斎藤義龍と結び清洲城の攻略を企てるが未遂に終わり、のちに信広は信長に降伏する。[信長公記]
1557 3年 24歳 4月9日 飯田弥兵衛慰宅重に同族彦太郎の跡式などを与える。[弘文荘古文書目録]
9月5日 第105代 後奈良天皇、没。[日本史人物生没年表]
10月27日 第106代 正親町天皇、践祚。[皇年代私記]
11月27日 熱田検校馬場氏へ敵味方からの依頼された保管物を誰が処分しても織田信長は同意しない旨、それ以外に織田信長が使者を門外に入れたり竹木を要求したり郷質を取り立てることを永久にしない旨を安堵。[熱田神宮文書][熱田祝師文書]